ジャン=クロード・ビエット『Le Champignon des Carpathes』(1988)

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広島国際映画祭のディアゴナル特集でビエット『物質の演劇』を見たとき、上映前の新田孝行さんが解説されていたが「バケット……、このバケットが実によくて」と繰り返していたのを、なぜか映画で見たバケットよりも覚えている。はたしてバケットを食べるシーンがあったのか記憶力が弱く思い出せない。だが本作ではホットミルクらしきものを入れたカップが出てきて、それを飲む。
ディアゴナル特集のほぼすべての映画にハワード・ヴァーノンが登場するのでジェス・フランコやマブゼ博士の手下や『海の沈黙』『アルファヴィル』のインパクトを通り越して「何にでも出てくれる人」として有難みも無くなったが(同じくほぼどの映画にも出てきたミシェル・ドラエのほうが味のある脇役として外せなかったし、石井輝男の映画に出てくる由利徹大泉滉くらい安心感さえある、というようなことをみんな言ってたはず)『物質の演劇』にもハワード・ヴァーノンがいたのは間違いないが、この演劇集団にマブセ的ないかがわしい印象を与えていた気がする(見直したい)。
今回のハワード・ヴァーノンは、最初は舞台上で照明を当てられてドラキュラ顔に陰影をつけられたりしていたが、いつになく人間らしい穏やかな光が差している。彼の家へトニー・マーシャルが訪ねてきたとき、トイレ掃除でもしていたのか、黄色いゴム手袋をして出迎える。彼はゴム手袋を外しながら彼女と席を共にする。この黄色いゴム手袋がいい。彼が何の掃除をしていたかもわからないが、(先の何が入っていたのか見えないカップと同じく)決して生活感を与えるためだけではない。黄色のゴム手袋もカップも、むしろ彼ら彼女らを現実にいる人間と、そうでない映画にしかいない存在との合間にいる忘れがたい何かへ変えてくれるからだろうか記憶に残る。
蓮實重彦インタビューに影響を受けて引用するなら「もっと見ていたいという気持ちを起こさせる」映画で、どのショットも「もっと見ていたい」。言い方を変えるなら、本作も『物質の演劇』も、物語がどこから始まって、どこで終わったのか、謎めいている。すでに何かが始まっている。初っ端から男は走っている。病院ではいつの間にか患者らしき女が、ふだんは横になっているのかもしれないがベランダで立って、どこを見ているのかもよくわからないが景色をボンヤリ見ている。単にフランス語を僕がわからないだけで、そこに字幕をつければわかる理由や時制はあるのかもしれない。しかし大事なのは理由や動機ではない気がする。カットが変わるたびに、ショットは繋がっていても、動きはあえて繋がっていないことがある。そして画面外の映っていないものの多さを意識させる切り返しと、舞台が始まる前になったかのように突然訪れる静寂。画面外はどうなってしまったのか、不自然な無音状態、そして選ばれた音たち(ハワード・ヴァーノンの唸り声以上に心地よい猫の鼾)。
以前、堀禎一監督の『魔法少女を忘れない』の最初のカットと最後のカットはどれと言えばいいのか、あの「月」ということにしていいのか謎めいていると感じた。それはまさに「恣意的な介在」(蓮實インタビューより)を意識させるものであった。『天竜区』シリーズの「冬」編では、すでに動きを止めているとも、これから動き始めるともつかない物たちが見え、聞こえていたのだろうか。ビエットの映画は『物質の演劇』も『Le Champignon des Carpathes』も、春の訪れる前のように、冬の海で唐突に終わる。

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