瀬々敬久監督『とんび』これを良いと言うと馬鹿なんじゃないかと一部から言われそうと勝手に不安になる。リアルタイムでは実感できない、ショーン・ペンの映画に泣くという感覚? 違うか。
最初は『糸』より良い(不真面目だから、また一本見逃してしまった)と思ったが、ずっと涙目の人を見てるなあと不意に冷静になってしまったのも事実だ。あとは回想形式で進むけれど、母親の死について息子が知るくだりとかナレーションで聞かされているだけなんじゃないかという気もする。でも銭湯の場面の阿部寛も息子も良かった。阿部寛がずっと涙目だとしても、それは僕の気のせいだったとしても、それでも阿部寛は良かったと思う。
ただ『糸』の倍賞美津子に続き、今回も肝心のシーンに便所を出したり、家庭の有り様の変化に森崎東とか、または先日見た恩地日出夫とか、過去の泣かせる映画たちと一々比べる必要はないのかもしれないが、現在の山田洋次よりも確実に意識してしまう。
阿部寛に対する評価は、自分含め観客にとって、ものすごくどう受け止めるべきか困るというか、やはりそこを試されているのか。これが多少映画祭受けするくらい洗練されたらジャ・ジャンクーの近作みたくなりそうで退屈だが、野暮ったい感じが魅力的だった。もう過去のはずなのに未来のような令和元年。あえて昭和63年を阿部寛の父(誰が演じるかは言わないほうがいいか)の死の年に設定したことについて『糸』と比較して論じる人が誰か出てくるはずだから、あまり今すぐは考える気になれない。だが「鳶が鷹を産んだ」という言葉が冒頭に掲げられ、ヒバゴンも出てきて(嶋田久作と同じぐらい阿部寛も老けるほどヒバゴン化する)、やっぱり阿部寛はかつての映画の暴走し迷ってしまう庶民以上に、鳶というか、昭和の人間とは何なのか?という謎を抱かせる。いや、庶民を映画にするとはどうするべきなのかという問い。彼を妖怪と呼べるほど非人間的で訳がわからない魅力があるわけでもないし、どちらかといえばそうしようとして失敗しているのかもしれない。後輩にケツバットする息子を殴ってしまう時なんか非常にわかりやすい。鉄拳制裁よしとするノスタルジーの映画という解釈はさすがにないだろう。一応は血のつながらない孫の終盤の問いかけが、この映画自体どう受け止めるべきか、やっぱり不安にさせる。もうノスタルジーで済ますのは許されないが、しかしノスタルジーに陥るのも避けられないのは、今の日本映画の限界なんだろうか。妖怪らしくなるのは、やっぱり老けてるのかもよくわからない薬師丸ひろ子の「姉ちゃん」か(阿部寛と再婚するんじゃないかという予感に触れるべきか)、急に芝居を始める安田顕や、杏の身体を気遣うまで老ける大島優子か、母の不在を説く麿赤兒か、だが昭和の、いや広島の?彼ら彼女らが、かつてあった腐っていても汚れていても美しいかもしれない存在が本当にあるのか、それを描いて良しとすべきなのか、映画は泣けばいいものなのか、結果的に過去の映画以上に問いかけている気がする。もうかつてのような映画はできないことをどうせ皆知ってるだろう。こんな抽象的な感想ではなく具体的な話なら、最後の神輿のガッカリに尽きるとかいえばいいのか。本気でスローモーションとフラッシュバックとナレーションはどうにかならないのか。