9/7~10 澤井信一郎監督作を自宅で見直す

自宅にて『Wの悲劇』再見。『野菊の墓』に続いて屋敷の出来事になるかもしれなかったのが、劇中劇になる。母に命じられたからか、娘が自分から進んで選んだ行動なのか、それとも女中でもあの場にいれば「誰でもよかった」ことなのか、役者になること即ち「身代わり」という認識から生まれるグレーゾーン。『野菊の墓』とともに組織の維持(芝居の、キャリアの継続)をめぐって、若者たち(薬師丸ひろ子高木美保世良公則)がズタボロになる。死体が衣服を身に着けて薬師丸の部屋へ既に移動している(『生きるべきか死ぬべきか』を澤井信一郎が語るインタビューは読み直した)。誰が高木美保に裏取引を伝えたのか(三田村邦彦なのか? だがおそらく一人の密告で済む話ではない)。グレーゾーンの発生と、映画のテンポ。記者会見のシーン。今更恥ずかしげもなく書くが、なんで見ているこちらまでどうしても泣いてしまうのか(死んだ犬か何かを思い出して泣けるものではない)。ただしっかり用意された本物の記者たちとの孤独な対峙の先に、身代わりであることも関係なく、孤独に引き受けた一人舞台が上演されている。前後を切り離して全然別の物語として成立する可能性のある時間。しかしそれを平気で切り離して成立すると考えて許されるのか。やはりここから積み上げた何かが一気に映画を動かしていくのだから、それは許されない考えだとはわかってる。世良公則が最後の方だけ見た舞台では、薬師丸ひろ子は舞台の始まりを種明かしとして再び演じる。世良公則が二度目の薬師丸ひろ子に、まるで初めから間に合っていたかのように追いつく。常にどちらかが何かに間に合っているかのように遅れている、これこそフィクションと舞台の、カメラの関係に近い。

 

続けて『早春物語』見るはずが、自宅のDVD見つけられず『めぞん一刻』見直す。
田中陽造の最高作かはわからないが、田中陽造脚本の映画化として最高の一本だと思う(よくこんな変な映画を作れたとも思うが)。澤井信一郎監督の映画でも一番好きかもしれない。田中陽造の世界とは何か?という一つの回答を見ているような、そのエッセンスが『Wの悲劇』にて試みられたように芝居として上演されているというか。そのシナリオの分析結果のような印象も澤井信一郎の作家性かもしれない。同時に「本気」とか「死ぬ」とか口にされるとき、マキノと田中陽造(具流八郎)というありえなかった組み合わせが果たされた気もする。『Wの悲劇』のように泣かせるシーンがあるわけでもないのに、終盤の石黒賢の「これで三度目ですからね!」に続いてアローアゲインが流れるエンディングにジンワリきてしまうという、これぞ澤井マジックではないか。
野菊の墓』の民子の死、おそらく『早春物語』から浮上した再婚と死者の忘却(やはり小津なのか)という主題も引き継がれて、生死の境を行き来する。身代わりや男女の交換、犬と人間の立場の転倒も、田中陽造の人形という題材にマッチしているんだろうか。ヒロインに相応しい石原真理子にも感動するが、萬田久子も最も美しく妖艶に見える。

 

順番に見直そうという計画もグダグダに『日本一短い「母」への手紙』。天竜川での鮎釣りが出てきて、ここでは犬ではなく母猫との切り返しがある。年の差男女の恋愛にいくかいかないかのむずかゆいやり取りが、再会した母子になったとすれば、これは近親相姦へ踏み越えそうな不安と隣合わせの、血の繋がりさえ演技にすぎない危うさ手前であり、その危うさを長女の裕木奈江は許そうとしないのか。それ以上に十朱幸代は松田聖子らヒロインたちのその後であり(彼女が夫の小林稔侍を捨てて嫁いだ家の「御母様」が加藤治子というのも重なる)、そのかつての映画では死んだはずの子供たちとの物語かもしれない。男と別れた彼女たちは化粧と光によって変化していったが、ここでは化粧を落とし、光に当てられた年相応の姿こそむしろ美しく、病を抱えた身体で立ち上がって息子とその恋人のためにヤクザに啖呵を切る、やつれた姿が最も母らしい(姐さんというに近い)佇まいになる。しかし一方で誰もいない息子の部屋で鏡の前に座る姿の不思議な少女らしい愛しさ(その家に大人しく収まらない母らしからぬ姿が裕木奈江には許せないのか)。十朱幸代と裕木奈江の涙なしに見れない抱擁に『Wの悲劇』の記者会見がよぎるように、ついに危うさと共に「忘れたことなんかなかった」と口にして母の役を掴んだ彼女は(会話が続くほどに泣けて仕方ない、映っていないものが膨らんでいく)、同時に死の気配を濃厚に宿して、そして全員が健やかに集う場所に自らは不在でなければいけないと知っているかのように、やはり旅立っていく。ここでは十朱幸代の身代わりに原田龍二は横たわり快復したのか。それにしても電話をしている裕木奈江が、どうでもいい会話であっても魅力的なのは、それが家にいながら、この場に収まっていないかのような落ち着きのない姿だからか。

 

『時雨の記』。昭和天皇の容態を伝えるテレビに対して、狭心症を患う渡哲也は、家族を捨て、吉永小百合との終の棲家を西行にならって吉野に求める。ついに両者があられもない姿になる寸前で時間は飛び、次のカットでは救急車の移動を映す。たぶん珍しいくらい呆気ない。『Wの悲劇』の記者会見で聞いたような質問を、渡哲也の妻(佐藤友美)が吉永小百合に向ける。やはり腹上死を連想させるから?  その妻と別の側から吉永小百合もタブーに抗うように、回想とも幻想ともつかない、渡哲也の自死に近い別れが再現される。語り手になる林隆三の声が死の気配と、恋人たちの真実には触れられないという靄を漂わせているが、この距離感を思い出させる映画は?(感度が鈍く、素養もないから思い出せない)。予想できる猥雑さ、みっともなさを清く排した結果、それをいくらでも想像できる映画になっているかもしれない。しかし何をしても日本酒のCMに出てるように見える渡哲也。仮面でもつけたような変顔は微妙に怖いが。