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澤井信一郎監督の訃報。自宅が散らかったままだから『映画の呼吸』も山田宏一インタビュー集も、蓮實重彦の『シネマの扇動装置』も部屋から見つからず。
勢いで『野菊の墓』。早いリズムの映画といっていいのか。矢切の渡しですれ違う民子と政夫の名高い冒頭に続いて、政夫は走っている。食事中から「何をそんなに慌ててるんですか」と言われてる。それでもトリュフォーのようにせっつく感じではない。誰も止まらない。大抵の場合、常に何かをしながら話している。それは経験の浅い役者が主演の場合の常套手段、演出上の技術なんだと思っても、誰もが自分からやっているわけではないだろうし、誰もが完全に言われた通りやってるわけでもなく。ただ講演やトークで見せる「教育的な厳しさ」といえばいいのか、そんな印象と重なる。それでも、こんな常に2つの動きが同時発生しようとしている豊かさは習得できるものなのか。
皇室をめぐる云々や、自民党がコロナ対策以上に熱をあげる権力闘争のことなどよぎってしまう。(小室圭氏の人柄の話は関係なく)この川辺の屋敷にて若い男女の物語を中心に、離脱する樹木希林さえ、周囲の誰も一貫して優しく見守るわけもなく、それが悲劇に辿り着けば皆が泣いて帰りを待っている結末も、そうやって家は存在してきたんだろうとなる。それは原作や木下恵介の映画にあったエッセンスかもしれないが。その面々の魅力が引き出されている。政夫と民子に対して何を考えてるのか下手したらちぐはぐになりかねない態度でもって支配する加藤治子はもちろん、せんだみつおっぽい湯原昌幸、女性中心に回して見える一家の中で男性らしく収まる(おそらく「卑劣さ」とも指されるに違いない)村井国夫、口うるさいが存在を前に出しすぎない赤座美代子、何もしてやれないに等しい愛川欽也・白川和子夫妻、麻生太郎を彷彿とさせる丹波哲郎、自分の与えられた役を誰よりもわかっているに違いない北城真記子。憎まれそうな時ほど、あえてワンカットだけ寄りさえするリアクションの演出が一人として退屈な役にしていない。役者への演出だけでなく、その容赦ない映画の早さが、全員を罪深い存在へ追いやっていく(はたして民子を死なせたのは軍人の宿した子ではなく、政夫の子という可能性はあるのか、しかしおそらく軍人たちは認知しない)。誰も討ち入りに行けない任侠映画の世界に違いないが、その悲しみも苦しみも罪滅ぼしもできない構造が際立って、役者の演出「それだけ」では辿り着けない領域に今もいる。
雑巾がけのくだり(マキノ由来の芝居の松田聖子が、鈴木清順の映画に近い時代・空間での行ったり来たりを経て、障子をあけると鈴木則文が繰り出しそうな不意打ちを食らう)、時間を停止させるようなりんどうの花、今日も誰かの死を悼むような夕焼け。わずかしか出てこない学校生活など(始まりの矢切の渡しからも、たとえば『丘陵地帯』の2~3ショットしかない風景・作業のように、おそらく限られたショット数の豊かさ)。それらに支えられてなのか、最も困難かもしれない男女だけの時間が、それでも何より美しかったように思えるのが凄い。一場面ごとに丁寧に分析するのにふさわしい映画と同時に、そうやって止めてしまいたくない(それも優れた映画ほぼ全てに通じる印象に過ぎないかもしれないが)。