堀禎一監督の『夏の娘たち』は『天竜区』における映画製作が反映された劇映画であって、これまで見たことのない映画を見ていると興奮した。デヴィット・リンチの『ツイン・ピークス The return』にも『インランド・エンパイア』その他の作品(どう名付けるべきか言葉にできない)が反映されていた。堀禎一監督の『天竜区』における試行錯誤(なんて言葉を僕が使うことは許されるのだろうか)が『インランド・エンパイア』と比べられるわけがない。むしろ『インランド・エンパイア』には可能性らしいものはなく、映画監督に戻ることはないとしか思えなかった。映画監督としては死んだと思った人間が『ツイン・ピークス』の続き(として求められている作品)を撮る。絶対に無理だろうと期待していなかった。しかし信じられないことに『ツイン・ピークス The return』は作り上げられた。しかも『インランド・エンパイア』のように何も新たなものなど期待できない搾りかすのような画面の気配を残したまま。
新作が『ツイン・ピークス』の続きということは、リンチからもう新しい劇映画を語ろうという欲望はなくなってしまったのかもしれない。しかし25年前を知らないとよくわからないとか、話の全体像がよくわからないとか、そんな見る側も作る側も記憶がはっきりしない輪郭の中で、リンチの物語は弾け飛ぶ。これまでになく何かを語ろうという意思があるのかないのか不明のシーンが始まっては途切れて、複数の空間を行き来する。ファンを味方につけて自らを守る、せこい作戦かもしれないが、しかし何から始まって、何をもって終わるのかもわからない、この作品に本当に付き合いきれる人間などいるのだろうか(その自堕落な日々こそファンのファンたる所以かもしれないが)。何が思い出されたように回収されて、何が答えを出す気がなかったかのように捨てられるか、見る側の集中力をはぐらかして驚かすための演出以上の、先の見えなさがある。ただ単純に本作の雲や霧の中を抜けようとする映像のような語りといってしまえばいいのだろうか(行儀良すぎるか)。同時にリンチには、いま映っているもの以上を語ろうという欲望は失われていず、その答えへ映像が追い付けなくても、17話冒頭のようにリンチ自らが長い説明台詞でもって語ってしまってでもいい、むしろちょうどいいくらいかもしれない。
役者への眼差しが関係しているのか。本作の25年の時を経た役者たちと、それ以外の前作にはいたのかいなかったのか(それどころか本シーズンの第何話に出てきたのかわすれそうになるくらい)よくわからない人物たちにも向けたドキュメントのような視点は、少しトッド・ソロンズのような悪趣味さがなくはない。しかしそんなことより感動するのは、前シーズンよりも役者としてのデヴィット・リンチが本作のトーンを一貫させていることだった。彼が自らを画面に放り込んでいなかったら、本作は成り立たなかったかもしれない。