『ツバメ号とシジュウカラ号』

 

アンドレ・アントワーヌの『ツバメ号シジュウカラ号』、6時間のラッシュは見つかり監督自身の指示書はあった、一度は試写も行われた可能性がある、しかし当時は完成まで辿り着かなかった映画。おそらく古びることをまだ知らない映画。「リアリズム演劇」の演出家による映画に対して周囲の向けた、当時の「あまりに記録映画的すぎる」といった意味の見解も、おそらく間違っていない。たとえば今年ようやく公開される『季節の記憶』(仮)や、家の歴史をめぐる風景を切り取ったドキュメンタリーかと思いきや役者たちによって演じられていたグスタボ・フォンタンの映画や、大工原正樹の『ファンタスティック・ライムズ!』での彼女たちから引き出された芝居の力が監督による演出の入っていないはずのライブシーンにさえ響いて見える迫力や、陸前高田の人々による朗読が劇映画とドキュメンタリー映画の垣根など無意味にする小森はるか+瀬尾夏美『にじむ風景/声の辿り』と比べても、いまだに新たな映画の可能性として存在していると思う(あげた名前がほとんど日本映画のため偏っている自分に語る資格はないかもしれないが)。
船の上から撮られた景色の数々は、横移動を繰り返すステージでもある。通行人と動物たちがカメラ以上に船を見て立っているような光景が過剰になれば、セルゲイ・ロズニツァの撮った通行人たちのようになると思う。ラッシュの6時間のままなら、どれだけ船上の移動ショットを繰り返し見れたのかと気になってくる。テーブルを囲んで視線を交わし合う男女のシーンを見ると、横移動の数々はもしかすると清水宏に近いのかもしれない。
製作から時を経て、字幕は映像の説明に過ぎなくなってしまっているかもしれない。しかし序盤ほど字幕が語るエピソードと、映像が捉える役者たちも参加した作業の数々の間の微妙に生じる距離が、とても野心的に思える。「記録映画的すぎる」本作は犯罪映画として見ようとしたら、船の作業に従事する役者たちに対して距離を感じて、そこが滅法面白い。そのズレはロッセリーニの映画と別の価値を見出せると思う。それでいて不意にポートレイト的な印象を受けるくらいのアップもあって、あまりに現代の映画として編集されてしまったのかもしれないが、この生々しさが完成させられなかった映画の記録と化しているとも思う。
そして水中に隠されたダイヤモンドをめぐって、逆に人物の欲望が暴かれる。闇をバックにした酒場も、唐突に始まる女性の着替えも、(アントワーヌの演出した舞台の筋については知らないが)おそらく演劇におけるリアリストとしての本領が発揮されていると思う。そして夜になって本性を露わにした男は争いの結果、水に沈められる。ラストの字幕と川と、そして幕切れ。映画は何年経っても、人間の感情も欲望も断ち切るように存在し続ける。マリオ・バーヴァ『血みどろの入江』や、昨年亡くなったウリ・ロメルの『Prozzie』のことも思い出す。川は無数の死者の沈む物語の装置でいながら、まるで独立するように流れていた。