鈴木卓爾監督の映画の人物たちは、ある場所に集まっていて、その場所は喋り声や楽器や映写機か何かの機材の音やらが常に響いていて、廃墟のようで光が差し込んでいて、各々に目的や志の程度の差異や悩みがあったりして、何かの感覚や記憶を共有していて、そこから一歩を踏み出そうとしたり、逆に理由をつけて踏みとどまっていたりする、微妙な時期を過ごしている。
『楽隊のうさぎ』の吹奏楽部の否応なく過ぎ去っていく時間のなかで、どの程度の達成があったのか、あえて曖昧になっているのが良かった。『ゲゲゲの女房』が一応は実在する人物たちの話であっても、あの家に住む彼ら彼女らは現在の風景の延長に妖怪たちと映り込む存在であって、家に入れた人物のひとりは力尽きて砂となって散る。
『ジョギング渡り鳥』の撮影機材がどんどん映り込み、いつ終わるかもわからない、どこへ向かって飛び立てばいいのかわからない時間さえ、ひどく親密に思えて驚く。特殊さでいえば「ワンピース」シリーズの1カットの製作スタイルさえ、訓練のための制約という以上に、その1カットのフレームの中で何が乱入してきても消えても、どこまで動けるか、どんな時間を過ごせるかであって、しかもカットがかかってから彼ら彼女らがどうなったかは、たぶん誰も知らない。
また鈴木卓爾監督の映画では役者は人間というよりも、自分を大人だか子供だか決められないように、妖怪であったり宇宙人であったりスタッフと化していたり(『ゾンからのメッセージ』のある人物を指した台詞のように)境界線上を歩いている。自分が何をしたい人かわからないと同時に、何かやりたいと言っている。同時にフレームを出入りするのが役者だけでなく虫や猫もいて、特に『私は猫ストーカー』の、猫にカメラを向ける上での礼節が問われるのは素晴らしかった。
『ゾンからのメッセージ』は2014年の映画美学校映画祭で見た時と画も音も編集も変わっているんだろうと思う。初見以上に、「インタビュー」が入ってくるまでは驚くくらいテンポよく物語られている気がする。演説する男へ向かってフレーム外からゾンビのように人々が出てくるカットがかっこいいし、そこから訓練中の人々を撮ったカメラの画に切り替わるのもいい。最初に『花の街』のコーラスが聞こえてくる空間へ入り込む時の高揚も、人物が何か話している最中に虫が割り込んでくるのも、「ワンピース」シリーズにて発揮されたフレームを使った出し入れが完全に映画にとっての武器になっている。
そして元バンドメンバーの二人が喧嘩に終わってしまったあたりから、映画の印象が変わるくらい停滞するけれど、そのことが決して退屈さを意味しない。たんに自分に想像力がないだけかもしれないが、やはりゾンから抜け出す仕組みがまるでわからない。どうして彼ら彼女らがゾンから抜け出せるようになったかもわからない。既にインタビューが「ゾン」から抜け出すまでもなく、外部を見つけたからなのか。作品の構造上の問題ではなく、おそらく意図的に誰かの力を感じさせない。一組のカップルの話として進むのではなく、後景にいるかと思っていたBAR湯の二人の女や、バンド三人組の話が前景に来たりもする、この入れ替りが「映画」なんだと思う。脚本のページが何枚か破られても映画が出来上がってしまうという逸話を信じたくなるような、彼ら彼女らの心情や動きが削られたり、もしくは見ている僕の集中力が切れてスッポリ抜け落ちてしまっても、ゾンから先へは進める。破れたページの合間に製作風景が、インタビューが、自転車に乗って回したカメラが紛れ込んで、何となくのゾンからの前進よりも、停滞した時間を共にした時に何を見聞きしたかが問われているような。長尾理世の手が視界を覆って、カメラは奪われたのか、次のカットでは男女がまた自転車に乗ってカメラを回している。振り返ると映画の調子が変化した時だったように思う。
青年が最初にカメラを向けた溝(『にじ』をすぐに思い出す)、「湯」、川の字、水のイメージたちが残る。最後の海に対してゾンを見出すのも、空を反射した水辺にまで描きこまれたゾンとは異なる波模様に感動もするけれど、どこか住民へのインタビューが切り返されてくるようにも見えた。