6/12『逃げた女』(ホン・サンス)

ホン・サンス『逃げた女』を見る。男性が監督した「女たち」の映画へ。別に何か挑戦した感じでも変化球というわけでもないが(キューカーとかロージーとかアルトマンとかではない、ホン・サンスはやっぱりホン・サンス)。スクリーンでホン・サンスを見ると、カメラが動かない時は観客として自分から人物たちの変化を追おうと目を動かしたりする楽しみがある。『正しい時~』に絵筆を一日に一本ずつ入れるという話が出てきたけれど、自分の眼を動かそうという気になれる。その動かそうという意識は、あのズームやパンによって導かれたんだろうか。

そして相変わらず、忘れることをめぐる映画。男は同じ話を違う時間・場所で繰り返す。それを見る妻は嫌悪する。しかし女も同じ話を繰り返している。そこに何を読み取るべきか解釈する気にはなれない。ただ言ったことを忘れる。ズームすると、それ以前の画面がどうだったかを忘れるかもしれない。だから割って寄っても変わらないのかもしれないが、やはりカットしないことによって、画を繋いでいた時には「見た」という気になっていたかもしれない感覚が、むしろ何かを「見ていない」と意識させる。誰かにズームすれば、フレームアウトしたものは見えなくなる(知人の感想を読んで、監視カメラの件や扉のことなどまた忘れてしまっていた)。ズームした瞬間に話を聞き逃したような、時間の持続に反して、何か見る側の意識を振り回されたような違和感が生まれる。キム・ミニが冒頭に話したことを繰り返して(そこで冒頭の話を僕は忘れつつあることを思い出すのだが)、映画は映画として何か着地点を見つけたように振舞う。しかし最終的にキム・ミニが再び波を見に映画館へ戻ってくる時、彼女の意識を映画は追いきれず、わけのわからない中身をどこかに置いてきたようにも見えることになる。映画は彼女を見逃さなかったかのようで、どこかへ抜けていったのかもしれないが、まあ、これこそ単なる解釈に過ぎない。

にしてもびっくりするほどクレジットが短い。いつも以上にあっという間だった気がする。

そういえば『夏の娘たち』(堀禎一)を先日ポレポレ東中野にて見直した。上映後の渡邉寿岳・草野なつかトークにて、ロッセリーニの後期の映画のカメラの話をされたといっているが、それでも『夏の娘たち』はロッセリーニと違ってカメラは普通に割っていた(むしろ割ったのを意識させる同時録音にもなっていた)。カメラを動かしながら役者への寄り方が、という話だったと思うが、川辺で台詞が水の音に遮られるのを意識させるくらい、カメラが寄っていくという感じはなかった。それを言うならホン・サンスの方がもしかするとロッセリーニ後の在り方を意識しているのかもしれないが(そこへロッセリーニとバーグマンを、ホン・サンスとキム・ミニがパロディみたいに演じてるとか、そう言うつもりは全くない)。

無理にホン・サンスと繋げて書き続けるなら、『夏の娘たち』ではホン・サンスとはまた全く異なる、変なんだかそうでもないのかわからない渡邉寿岳のガクガクしたズームが数回入るが、そのうち一回は寝たきりの下元史朗の顔へズームする。役者の顔をあえてしっかり捉えるために寄ったような、そういうわけでもないような謎が残る。(おそらく)二回は、ある意味ホン・サンスと同じく向かい合った女優二人が食事する時に西山真来へズームする。たぶんそれは映画にナマの時間を導入しかける。『天竜区』夏篇からか、もしくは『憐』の焚火を囲んでの長回しや『魔法少女を忘れない』の生徒会長とのカットバックからか、それ以前からかもしれないが、インタビュー的な感じがする。それは西山真来の役に聞いているのか、本人から引き出しているのかは謎めいているが、この彼女が何かを決めたんだと言う姿に感動する。同時にそれは「非決定」とも言えそうな、いくつかの解釈をあえて残すのは、その合間合間に男女の間、いや男も何もなく女しか知らない何かがあまりにも多くあって、それは映画が捉えていないものの多さを告げる。そして最も個人的に印象深いガクガクズームは、女たちだけで妊娠したとか結婚しないとか話した後で、なぜだか玄関にやってきた男にガクガク寄る時で、男は話に全然ついていけていないが、冷たいウーロン茶とか振舞われて飲んでいて、そんな彼に向けて「まあ、おまえにはわかんねえよな」という、女たちの目線ではない、年長者からのニヤニヤした目線を感じる。このガクガクにはユーモアがある(話が大分それてしまった)。