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夜。コズミック出版のBOXに入っていたルノワール浜辺の女』を再生したら以前見たDVDよりいくらかまともになっていたので、最後まで見る(いま検索したら別にコズミックのが優れているわけではなさそうで、単にケチってきたツケか)。
日仏学院で見たことがあるが、その時は『コルドリエ博士の遺言』と並ぶヘンテコ映画という印象だった。感性がまだ死んでいたんだろう。どうせ今も少なくとも周りからは死んだ感性の人間と見下されているが、まあ、それはともかく。『チャールストン』の黒い球みたいな機雷が爆破するロバート・ライアンの夢で、炎の中から女の顔が浮かび上がるのは『スポティニアス・コンバッション』に連なる気がしてきたり、ジョーン・ベネットとライアンが惹かれ合ってしまう過程を『危険な場所で』と比べたりできるのかもしれないとか(というかロバート・ライアンと自分が実は同じ誕生日とか)、いろいろ余計な連想もできて、ようやっと充実した気持ちで見直せてよかったが、でもまだまだ見れた気がしない。
やはり盲目の画家が盲目の画家に見えない時点で『コルドリエ博士』並みに、実はすっ呆けているのかもしれないが。タブローに何が描かれているか裏向きで見えないのは初見から奇妙すぎて覚えている。画の話をするビックフォード、ライアンの並びがジャン・ユスターシュの『アリックスの写真』っぽいことになるのだが、そこに画のモデルであるはずのベネットのショットを挟むことで、さらに奇妙になるのだが(それをこれ以上分析するための記憶力がない)。ロバート・ライアンもまた盲目なのか?と思わせる展開で、字がぼやけて夢想へ突っ込む展開もあったが、タブローの裏面の謎を思うと、誰の主観なのかという下手な解釈をしてしまった自分が馬鹿らしくて嫌になる。むしろそんな主観が延々ずらされていく。それよりも奇妙なのがまだある。チャールズ・ビックフォードが転落してからライアンとベネットがやり取りする過程で、ただベネットを見るしかないライアンが映る時間が驚くほど長い。で、ビックフォードは目も見えないのに自分の髭を剃刀で剃る(こんなのを疑わない方がおかしい)。「俺が見えていたころの君の美しさを忘れない」と語るビックフォードとベネットの並びをずっと撮るショットでは、もう彼の眼が見えているかどうかは全く関係ない。それはもうかつての思い出の話を、そして心の話をしている限りは盲目も何も関係ないのだ。カットバックの段階でロバート・ライアンはベネットを自分自身のように話していた。映画の中で誰が誰をちゃんと見ているかはわからない。ただ切り返しただけで、その人を見たというよりも、その人と自分を重ね合わせるという、本当に見えていたのかを宙づりにするような解釈を始めてしまう。
何より松村浩行監督『TOCHKA』のことがよぎった。しかしここでは誰も意外なことに死なない(画家が自殺して終わると記憶違いしていた)。サスペンスとかノワールとか、何らかのジャンルの下にあるような振りをしているかもしれないが、まだまだどう形容していいのかわからない。何よりロバート・ライアンが告げる「自分自身を知るために戻らなくてはいけないんだ」という台詞(正確には覚えていないが)にはゾクゾク来た。自分自身とは彼自身のことなのか、彼女とのことなのか。この一言に映画を単純に形容すればいいのか。これは自分自身を知るための諍いなのか。『TOCHKA』のトーチカといえば、最近だと鈴木仁篤=ロサーナ・トレス『TERRA』を見て、夜明けへ向かうトーチカというか、ここでは炭の釜なんだが。じゃあ『浜辺の女』の船の残骸と薪拾いに始まって、最後の炎上は自殺ではなく、すべてを炭へと生成する過程なんだろうか。なんだか舞台の袖へひっそり消えるようなロバート・ライアンの退場はおかしみがあって、驚くくらい爽やかな気持ちになれる。