5/26 『恋に踊る』(ドロシー・アーズナー)@アテネフランセ文化センター

去年逃したドロシー・アーズナーを見にアテネフランセへ。仕事のため『人生の高度計』は間に合わず『恋に踊る』だけ。「複雑な状況にみんな混乱してただけ」とモーリン・オハラ自ら答える台詞通りの映画かもしれない。どこか冷静な「せわしなさ」という点で、グレタ・ガーウィグ監督作の先駆けみたいな。スピルバーグペンタゴン・ペーパーズ』では歩道を渡る役名もはっきりしない人物が一人轢かれかけるが、ヒヤッとしつつもどうってことなく走り抜ける。『恋に踊る』では老女が轢かれる。それがモーリン・オハラの回り道のきっかけかはわからない。雨の日に鍵を落とすという展開が、回り道を回り道ではなく必要な通り道であったかのようにも思わせるし、ただ引き延ばした不運の一つだったのかもわからない。麻生太郎のような「勝者」の目線通りに出来ているわけではない。まず単純に運が左右する。そこに彼ら彼女らの性格が加わる。酒の力が、気まぐれが、内面の不安定さが、自らをコントロールさせてくれない。振り回される自分たちはショーの仕掛けの一つ、与えられた役、演じる役に過ぎないのかもしれない。自らが「ブルーの瞳」の代役でしかなかったことも、知らぬ間にブルーの瞳ばかり追っかけていたことも、何も私たちは自分をコントロールできていない。だが踊る身体を、観衆の反応を、マスコミを、相手の癇癪をコントロールできたところで、それが実力や才能というものかもしれないが、それでも、結局のところ自分の意思だけで世の中動くわけではない(所詮は型通りの展開に過ぎないようにも見えてしまうことも含めて)。それゆえの乾いた「せわしなさ」。このせわしなさの意識に、何となくボンヤリとしか日々を過ごしていない自分はあこがれる。それでも思い出話など喋ろうとすると、自分にも「せわしなさ」を経験した時はあった気がしてしまう。自分は振り回されていた(と思ってみたい)。自分はせわしなく生きていた(と振り返ってみたい)。上昇も下降も運動は意志だけではどうにもならない世界。
どことなくジョージ・キューカーを思い出す映画で、酔って壇上へ歩んでいく姿はジェームズ・メイソンが重なる。スターも出てくる。裁判も出てくる。ルシル・ボールのマスコミの扱い方にしても比べたくなる。やはり女性か、マイノリティの側か、そうした立場だからこそ見える役割が、誰もが勝者になれるわけがない世の有り様がはっきりと見えるんだろうか。

先日の森﨑東『わが町Ⅱ』の蟹江敬三がこぼす「俺の人生このあたりまで」という見えてしまった地点、『花柳幻舟獄中記2』にも通じる、選んだわけでもない生。

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