フランク・コラチの『リディキュラス・シックス』をようやく見る。
グッチーズ・フリースクールとその周辺の方々とは早稲田の藤井仁子上映会などで知り合った時から、自分がいかに不勉強か、特に現在のアメリカ映画をまともに追い続けているという点では全く敵わないと思っている。それはnobodyの方々も同じで、所詮自分のような脇道にそれたがる、背伸びばかりしたがる半端者たちは到底追い付けない正統な熱心さを感じて尊敬する。
フランク・コラチとは一体どのように評価されるべきなのか。降矢さんが10年代の見るべき配信映画たちに『リディキュラス・シックス』をあげているのは知ったが、肝心の評を残念ながら読めていないまま。フランク・コラチがいかに重要か、降矢さんだけでなく信頼する人たちから名前を聞いていたが、掴みどころのないままである。フランク・コラチは別格として扱われるべきなのか。
『リディキュラス・シックス』は凄い映画だと思う。過剰なくらい下品な脱線の連続。どんだけロバがクソを噴射しようが、乳首が3つあろうが、生首が飛ぼうが、それでもあの朗らかさを失わない。能天気で無神経な映画ではない。吹っ飛ばされてからロバに乗るまでの一瞬だけの合成とか細部のこだわりがある。なぜかリンカーンを守れなかったボディーガードが救われるシーンにも泣かされそうになる。野球誕生シーンだって出鱈目なんだけれど微笑ましい。多すぎる人物たちのアップをレオーネ風に何度も繰り返すかと思いきや、撃ち合いは中止に。マカロニ調にも少しだけしかならない。西部劇へのわかりやすい愛着も感じさせない。映画の歴史なんか知るかとバカにしてるわけでもなく、ただ世の流れに乗れてるかわからない。なのに映画としてはどこまでも正統派なのかもしれない。はたしていかにかつての映画に言及しすぎず、たいして良い話にもせず、真っ当かもわからない。映画の正統派とは何か、そんなものはあるのか、その答えが秘められてるかもしれない。「たかが映画」(そこに「されど」はつかない)であるとは、どれほどなのか。
ニック・ノルティが種を蒔いた結果としての六人(かそれ以上)の息子たちは「会えば好きになる」はずがあっさり裏切られる。たかが血の繋りでしかなかった。親も兄弟も全然似ていず異なる歪な特性と経歴を持ち、血の繋がりにも必然性はない。そこに映画そのものを見るのはいかにもすぎるから省略。