『憐 Ren』

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中央評論 270

 

 

『憐』を見直して、「中央評論」270号「特集:日本映画」掲載、堀禎一小津安二郎監督の『技術』入門編」に「待ちポジ」の話が出てきたことを思い出した。

 

そして小津監督がことあるごとに好きな映画監督として挙げる名前にジョン・フォード監督がある。 (略) フォード監督と小津監督が好んで描く共通した題材に「報われることのない恋愛」というテーマがある。『秋刀魚の味』で岩下志麻が結婚したいくらい好きな相手は、ゴルフクラブを売りつけにくる兄の会社の後輩、「三浦」である。 (略) 『荒野の決闘』で女性教師が好きだったのはドク・ホリデーである。「恋愛」は「情熱」である。しかし両監督ともその「情熱」を無条件で良しとはしない。そして、「職人」であるふたりは共に「待ちポジ」(役者が画面にフレーム・インしてくる際、カメラを動かさず、そのままのポジションで「待っている」ところから付けられたと思われる呼称。通常はまずい技術として忌み嫌われる)と言われる「技術」の名手である。ふたりの「待ちポジ」は、それぞれの方法で、いわゆる「待ちポジ」ではないのだが、この話は長くなる。またの機会にしたいと思う。今はただふたりの映画の物語上のモチーフに重要な共通点があると指摘するにとどめる。

 

小津・フォードはどちらも「待ちポジ」の名手だけれど、「ふたりの『待ちポジ』は、それぞれの方法で、いわゆる『待ちポジ』ではない」と続いて、謎をかけられたような気分にもなる。結局「待ちポジ」の話の続きは読めず終いだったと思う(どこかに書かれているのを読んでないか忘れてしまっていたらごめんなさい)。「技術」とカッコに括っているのが、当然「入門編」の忘れてはいけない点だとは伝わる(それでも『妄想少女オタク系』の阿部みたく「それってどういうこと?」と千葉に聞いて「わかんねえだろうな」と返されて終わりかもしれないが)。

秋刀魚の味』の「報われない恋愛」の一つ、岩下志麻吉田輝雄の駅でのシーンについて書かれている。

 

「撮影する側」は「路子」と「三浦」が結ばれないことを知っている。だから東急池上線「石川台」という、今も現存する、少し「高台」にある駅で撮影されたであろう岩下志麻吉田輝雄のくだりは確かに何気ない言葉のやりとりがふたりの間でなされるだけの短いシーンだが、お互いに好意をもちあいながらも決して情熱的には結ばれることのない目線の関係が、厳しくも美しいリリシズムの原理にしたがって撮影されている。ふたりがホームに入ってきた電車にふと目をやる時、ふっとそれまでの緊張がほんのわずかに緩み、ふたりはもしかしたら将来結ばれるのではなかろうかと思うその時、そのシーンのラストカット、カメラはさらりとロングでふたりの背に入る。ふたりがホームに立つ背姿をとらえたロングショットに「電車」が入り込んでくる。その美しさ。「技術」である。しかもこのシーンの撮影は「撮影効率上」、間違いなく「順撮り」ではない。誰もが「うまい!」とうなると同時に、ああ、やっぱりふたりは結ばれないのだと思う瞬間である。小津監督の背姿のグループショットは厳しくも優しい。バック・ショット(人物の背姿をとらえるショット)のロングに万感が込められる。そしてホーム上でなされる会話。「野田=小津」コンビの脚本。 

 

「電車」が「技術」のようにカッコで括られて不意をつかれるけれど、「高台」と同じく、画面に映るイメージとして単に『秋刀魚の味』だけではなく映画にとって外してはならない要素の一つに間違いないということか、それとも、もしかするとこれまた謎をかけられたようで「おかしい」と感じるべきなのか。2分間しかない『天竜区水窪町 山道商店前』の会話から聞こえてきて、黒画面の後に、音声が消えた画面へ入り込んでくるのも「電車」とカッコで括るべきなのだろうかと、余計なことも連想して広がりのない脱線をしかけるが、ついでに「入門編」終盤も引用する。

 

正解なんてない。「技術」があるだけだ。「映画」があるだけだ。「表したい」ことがあるだけだ。そして、あたりまえだが、「技術」はその裏に隠された「気持ち」に、「想い」に裏づけられている。

 

『憐』は堀禎一監督にとっての(いわゆる「待ちポジ」ではない)「待ちポジ」という「技術」についての映画のひとつということでいいんだろうかと思いながら見た。

教室に誰かがいない。いないはずの誰かが教室にいる。

クラスメイトが休んでいても、休んでいるなりに盛り上がっている。そこへ平然と遅刻してクラスメイトが入ってきたら、「遅えよ」とか言われながらも、もう教室に溶け込んでいる(それとも、たとえば自分がいない間に、いつまで欠席してるかなんてトトカルチョは悪趣味だとキレずに笑ってみせる馬場徹の佇まいというかリアクションが特別素晴らしいということなのか)。

転校生がやってくれば、彼のためのように誰も座っていない席が用意されている。そしてクラスメイトのひとりは彼に一目惚れしてデートを申し込む。

さすがにクラスメイトの一人が家族に何の連絡もせず帰ってこない、登校もしてこない、となれば背景に「事件」を想像してしまう。それはクラスメイトの不在が、彼・彼女の戻ってくるための席はまだちゃんとあるということかもしれない。最悪なことが起こってしまってからも(むしろだからこそ)彼らは、明日も普段通りにしようね、という言葉を残して一人、また一人と帰っていく。

久しぶりに登校したら、見たことのないクラスメイトがいて、彼女の名前も顔も知らないのは自分だけだった。放課後、友人たちとのバスケ中に彼女の名前を出したら、誰も彼女のことを知らなかった。しかし彼女本人をその場へ連れてくれば「珍しいね」とか言われようと、バスケに交ぜてもらえる。

堀禎一監督の映画では告白が肝心の男女の間だけではなく、休み時間のクラスや、みんなの見ている前でおこなわれ、それを「勇気あるな」「大胆」とか「いまそんなことしている場合かよ」なんて言われながらも、冷やかすというよりは、まず一通り見守るといえばいいのか、これまたよくある言い方だけれど、映画とはそういうものだ、そんな隠れてやればいいことを人前でおこなうのを受け入れると言わんばかりに。たとえば人前でなく二人だけでの告白は、それを見守る人々がいないからか、より場違いというか、唐突というか、受け止めるポジションを見失ったもののように感じる。だからなのか、『妄想少女オタク系』の夜の駅でのキスは「わからない」ものでドキドキする(これはもう「待ちポジ」とほとんど関係ない)。

それとも誰かが窓から駐輪場を見ている主観ショットのような画に、自転車をひいた朝槻憐がフレーム・インしてくる、常に下校中の彼女を先回りしているようなカットのことこそ「待ちポジ」と言うべきなんだろうか。

 

はたして「待ちポジ」のことを、そんな妄想してお喋りすべきなんだろうか。たとえばジョン・フォード『幌馬車』のベン・ジョンソンハリー・ケリー・ジュニアがワード・ボンドたちへ合流する時、来ると思ってたよ、なんて交わすシーンは「待ちポジ」と呼んでいいのか。小津安二郎なら『麦秋』での原節子に対して「あんパン」の話を杉村春子がした時の、どこか待ってましたというか、駄目なら駄目で仕方ないけれどよかったよかったというか、収まるべきところへ収まっていくというか、そんな抽象的な話でいいんだろうか。やっぱり違うだろう。たとえば冒頭の一家が各々のリズムで朝食をとり、身支度を済ませ、外出するまでの居間や洗面所、鏡台のある部屋など様々なフレームへの出入りを繰り返すショットたちのほうが「待ちポジ」かもしれないし『憐』の休み時間の教室とも似通って見える。それとも単に「おまえにはまだわかんねえだろうな」って千葉君から返される話かもしれない。

 

影響を受けやすい、人の真似ばかりで恥ずべきかもしれないが、9月22日『天竜区』シリーズ上映後の葛生賢・岡田秀則トークにて「ジル・ドゥルーズの『アベセデール』」の話になったので、ようやく見始めたら「C」で「襞」の話が出てきたけれど、同時に「待ち伏せ」という言葉も出てきて「そういえば『待ちポジ』の名手という話があったな」と思い出した。

ドゥルーズの話によれば、もしも(うまい例えではないかもと言いつつ)「第二のベケット」というべき誰かがいたとして(プルースト失われた時を求めて』第一稿の出版が拒否されたことを揶揄して「我々はガリマール社の過ちを繰り返しません」というコピーの新聞広告を目にして呆れたという話を踏まえて)スカウト業者がヘッドハンディングできる存在ではない。あくまで今の段階では「いなくても困らない」のだ。絶対的に新しいものは、まだいなくても誰も困っていない。

大雑把にまとめれば「出会う」ために映画館に通って「待ち伏せ」しているというドゥルーズの姿勢と「待ちポジ」の話を繋げていいのか、全然違うよとツッコまれてお終いな気もする。

 

エンディングテーマの「食い逃げリーダー」(『ひき逃げファミリー』とか『万引き家族』とかよぎる)の『空色のミライ』が流れた途端(バンドと、そのファンには大変申し訳ないけれど)ズッコケそうになる猛烈な違和感にはいつも驚く。『妄想少女オタク系』のエンディングは、やっぱり曲そのものだけ聞いて好きになるか相当に怪しくても、映画の最後に流れてくると、それまでのあれこれ思い出して余韻に浸りながら、とても素晴らしく聞こえる。甲斐麻美が海辺に立って、こちらを見ているラストショットが本当に愛しいから大好きなエンディングだ。しかし『憐』のエンディングテーマは余韻をぶった切る。別にこれは堀禎一監督の与り知らぬところで用意された音楽かもしれない。それでも決して『妄想少女』は素晴らしくて『憐』の音楽は残念ということではない。むしろ『憐』のエンディングテーマが流れる瞬間は、映画の無意識に触れているんじゃないかという気さえする(そんなのよくあること、という点も否定しない)。ここには(貶めるつもりはないけれど)『寝ても覚めても』のtofubeatsにはない何かがある。方向性は全く違っても、虹釜太郎の音、『天竜区』シリーズの割れた時報の素晴らしさと、おそらくエンディングテーマと堀禎一監督の映画の間にある溝は通底している。映画と音楽の出会いに幸福も不幸もなく、それぞれが本来出会うことさえ唐突で違和感を覚えるべきなのだろうか(比べて『魔法少女を忘れない』の音楽は王道という印象はある。あくまで印象に過ぎないが)。

ついでに『夏の娘たち』に出てくるシーラ・Eやデヴィット・ボウイの名前が何だか納得させてくれない音楽と映画の間の溝は何なのか。特にボウイの音楽と映画を見る度に出くわして食傷気味になったことを思い出すと、この溝は痛快にさえ感じる。デヴィット・ボウイに似ているという「旅の人」とともに、どこか本来あるべき位置へ旅立たせてしまったかもしれない。音楽が割れたまま響く時報のように、もしかしたら「いなくても困らない」けれど存在してしまっているというような。


妄想少女オタク系』の四人組(に加えて先輩)がこのままずっと見ていたいくらい愛しくても、その他のクラスメイトたちが混じったカットに関しては、もしかするとまだまだやれることがあるという段階だったのかもしれない(授業中に男女二人が叱られて立たされてから微笑み目線を交わすロングなんか本当に大好きだけれど)。それくらい『憐』の休み時間のカットは誰がフレームに入ってきても、誰が出ていっても、どちらにしろ当たり前の変わらない光景を見ていたような気にさせるくらい、みんなの動きがさりげない。『魔法少女を忘れない』の、まだ誰が主人公かもわからないけれど、その後に活躍するかどうかもまだわからない人物たちが次々と登場するオープニングの授業は、丁寧に作り込まれていて、それでいてこれまたグイグイと映画の世界へ引き込まれる。

放課後に繰り返されるバスケをしながら交わされるやり取りなんか(一度だけ賭けの話になるが)パスやシュートがさりげなく決まりながら繰り返す会話はどうやったらあんなに平然とできるのか(単にみんなの運動神経がいいのだろうか)。『夏の娘たち』の本当に言い間違えたんじゃないかという会話が紛れても、ふたりは笑って話を続けるカットのことも思い出した。

鳴瀬(馬場徹)が憐(岡本玲)を初めて放課後の友人たちのバスケに参加させようとするシーンが素晴らしかった。それがどれほど彼らにとって切実か、映画を見ていない人に伝えられる自信がないけれど、(はたしてフォードの名前ばかり出して監督の掌の上を踊っているに過ぎないかもしれないけれど)『荒野の決闘』のダンスに誘うシーンに見える。憐の祖母(宮下順子)が若いカップルを見送る姿が、そんなあれこれ映画を思い出したなんて言っても陳腐で伝わらないだろうけれど、これまでの結婚を約束された男女の送り出される姿が強烈によぎって、自転車に乗ったカップルの男がすれ違う人々に挨拶を続ける姿は涙なしに見れない。そこへ切り返される、道路の向こう側にいた速水今日子の目線が「死」の予感と、カップルの姿を寄り添わせる(今見ると『イット・フォローズ』を思い出す)。

そして何度もよぎる「人殺し」。「皆殺し」が映画のカタルシスとして強く記憶に残ったことは何度もあるけれど、その解放感への誘惑と恐怖がつきまとう。川辺での男女の散歩が強烈に連想させる殺人(同時にこれは堀禎一監督にとって加藤泰『皆殺しの霊歌』に最も近い映画なのかもしれない)。岡本玲馬場徹にナイフを向けるシーンの、最初は見ていて芝居や展開に入り込めなくても、うずくまって地面に向かって声をあげる馬場徹を見ると、『妄想少女』での彼の台詞なら「マイナスからの反動」として、違和感が切実なものとして受け止めざるをえなくなる。堀禎一尾上史高コンビの映画は、初めの違和感に対する相手のリアクションが「この映画を見れてよかった」という気にさせる(知った風な書き方か)。

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