恵比寿映像祭へ。
ビー・ガンはいつかつまらなくなりそうな不安はあるけれど、まだ面白かった。今回も異なるタッチの映像をつなげてるとも、つなげてないともいえるというか。才能か。川下りの向きが1カットだけ逆転したように錯覚する。話は頭に入らなかった。

川添彩『夜の電車』すごく凡庸な言い方をすると、劇映画と思ったら実験映画に変わる、実験映画と思ったら劇映画に変わる、初めてソクーロフを見た時のとっつきにくい印象を思い出した。水に飛び込ませるのが好きというのも、フィルターの使用も、作品自体は全然似てないが通じるかもしれない。一般での上映予定はない作品だったため原作使用の許可を得ずに撮った(今回の上映のために取得)、かつ鈴木卓爾が出ているというだけで『デメキング』のことを思い出したり、20年くらい前のことが繰り返されているような感覚。

「若手」として選ばれる映画を見ると(別に悪く言うつもりではなく)以前見たようなあるものが再びやってくるけれど、しかし当然生きてる時代は違うから別物になる、という印象がますます強くなる。つまり自分の脳も老けた気がする。

『あなたはそこで何と言ったの?』の手を空に伸ばすカットには『ウエスト・サイド・ストーリー』にはない、撮りたい人を撮っているという感覚があった。あえてピントを合わせないなど、フレーミングの慎重さも記憶に残る。そこに定まるまでのカメラの揺れもズームも残されていて、狙いが伝えられる。そして猫の死が先なのか、映画の語りが先なのか。牛乳パックとゴミ袋が、映画が遅れてきたことを伝えつつ、まずは語りの声から聞こえてくる。かつて起こった出来事として映画が先回りして伝えてくる。そうした手付きはわかりやすい一方で、作家自身の(少なくとも見る側はそのように解釈させられる)出来事をどう見るべきなのか(なぜ扱われ続けるのか)、距離感はますます掴みにくくなっている。明らかにわざとわかりにくい。あのテクストは一体なにかという謎を抱えたまま見続ける。それは、間違いなくコロナ(もちろんテレビに映り込んだ安倍晋三らの不手際を含む)が関わっているのだが。『愛讃讃』にあった母子を演じる役者と違い、再現としてのわかりやすさとは違う、わかりにくくするための引き裂かれた演出。それでも面会できない状況が不在を物語ってくる。