【異端審問=independent vol.01=吉岡雅樹】感想

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【異端審問=independent vol.01=吉岡雅樹】へ。
ゴダールウディ・アレン会見』にて、テレビは家族団らんの場に収まろうとするが、あなた(アレン)がテレビを憎み映画へ向かうのは、映画が家庭という場から逃れるために見に行けるものだからだ……みたいな話をしていた覚えがある。
結婚式と映画の相性は決して悪くないはずだが(たとえば愛の告白は映画において第三者その他が周囲で見守ることを必要とするかもしれない。二人きりの告白は成功か失敗か判断できる第三者がいない。その代わり直接的な性交へ突発的に至る可能性も高い)、結婚式に上映される映像は面白くあってはならない。遠慮がちに、主役のふたりを引き立てるために、映画の暗闇は必要とされない。結婚式というか親戚職場の人が集まる冠婚葬祭の場に映画を上映すべきではないということか。
『結婚』は結婚式よりは上映会に相応しい。しかし誰がいつどこで見ても、どう接すべきかの距離を掴めない捨て子のような、奇妙な映画でもある。冒頭、おそらく旦那が撮影した妻のアップで「ナイスですね!」という声が聞こえてくる。結婚式のビデオからAVへ(浸食というほどでもないが)少しだけ傾く。そして妻になる女性は橋から川を見下ろし、心中を連想させる話もするが、それも決してタブーに触れるほどではない。それでも結婚式という場での上映は相応しくないと思わせる。より近しい関係のみに向けられるべきなんだろうか? そうだとしたら結婚式ではなく、上映会という場が必要なのだ。画面は大半が白く飛んでいて、このどんな距離で見ていいのかわからない映像から、ますます距離感を奪う。この感じは小田香『ノイズが言うには』を見た時の印象に若干近い。
平面と距離感の喪失。『こるはの独唱 第二版』は「第二版」という題が最も重要であり、それは映画に印刷物のような印象と同時に、何らかの影に近い過去と時間と奥行きを与える。紙っぺらの持つ厚み。楽譜と写真のもつ「ショット」として用いられて成立するほど強度ある画と、読み切れないほど早く過ぎていくワードに貼られた村野弘二にまつわる文書(そのテクストとして持つかもしれない厚みを、映像のスピードが奪い、薄っぺらにする)と、「日本映画大学」のタイトルのブランドとして何の強度も持たない明らかな薄っぺらさが続く。『第二版』の黒と『結婚』の白。それはどちらも、なにか意図の測りきれない、収まりの悪い時間として過ぎていく。
『ドライブ』もどう見るべきかわからない距離感の喪失は一貫している(反射する車窓、綺麗に剃られていない坊主頭)。『結婚』の心中とともに、山道へ入っていく男女の車がどこへ行くのかはわからないが危うさもあまり感じない。クラウス・ウィーボニーの配信が行われていたころに、この『ドライブ』が撮られていたのは興味深いかもしれない。只石博紀氏の作品のように、つまらない映画よりは興味深い映像、のようなものとして、三鷹聖蹟桜ヶ丘での上映も相応しいかもしれない。だが終盤、ワードが映ってカーソルの移動を追い続ける。その平面には、これでもまだ「映画」といえるのではないかという試みがある。つまりワードの上映がパワポ的なものではなく、カーソルという目線を追う運動なのか、それとも内容を追う気さえ失せるものなのかの、きわどいラインだ。そこに(『ドライブ』車内に登場する)大島渚の『日本の夜と霧』終盤、演説が聞こえなくなっていくときの、これ以上議論を追う気も失せるときを幕切れに用意したかのような印象に近いかもしれない。結婚式場で行われる演説は、映画よりも相応しいのだろうか。