「グランド・ツアー イタリア紀行・短篇集」「ヴィットリオ・デ・セータ短編集」

国アカにて「グランド・ツアー イタリア紀行・短篇集」ジャン・ルカ・ファリネッリが解説しながらの上映。
どれもパンのし甲斐がありそうな光景。正直もっとちゃんとメモとって覚えておけばよかったくらい詳細を言えず残念だが、どれも面白く、どれも見ごたえあり。
とにかくポレンタがデカい。ポレンタ食べたことないが、それ以上に画面手前で貪り食う人達の迫力が芝居がかっているが凄い(『最後の晩餐』でもこんな光景はない)。ここに出てくるチョコレート工場の手作業とベルトコンベアの調和はもう『チャーリーとチョコレート工場』では見られるわけがないし仕方ない。キャラメル工場はボクシングジムのようだ。メッシーナ地震後の復興、パンだか物資だかを港でパスしていくロングの放物線に見惚れる。
飛行機ショーの記録は、飛行機自体は後で編集で空に重ねたヘンテコな光景で拍子抜けだが、その前の長いワンカットで恐ろしく賑わった群集を車上から撮った長回しの移動ショット(これが「長回し」という言葉が相応しい長さ)、そのほぼ全員イタリア製麦わら帽子を被ってカメラを見て笑顔という光景の迫力。この活気は日本の誰も彼も俯いてカメラに目を逸らす光景はもちろん、現在のあらゆる映像が蔓延る中から再び見つけることは想像できない力がある。
1909年の子供たちのモデルコンテストは鼻ほじっている子の不敵な感じもツボだが、ワンフレームごとに子供一人一人のモチベーションの違いが面白い。映画誕生の年に生まれた子供たちという解説より、もう少し幼い気がしなくもないが、ともかくこの子たちが物心つく段階で「映像としてカメラに撮られる」ということに対する意識をどのように目覚めさせているか(もしくはわからずにいるか)が興味深い点で、解説通り「第一世代」と呼べるんだろうか(その先にはウォーホルのスーパースターたちがいる?)。大人顔負けに妙にカメラにポーズを向ける子が実に末恐ろしいのだが、もっと素朴に言われるがまま立ったり花をカメラに向けたりする子には動物的な魅力もある。

 

国アカにてヴィットリオ・デ・セータ短編集。
今回の素晴らしい特集が年末年始の休みの反動で仕事により見逃した作品多く、年明けから悔しい。
既に話題だから見る人は放っといても見るだろう映画にわざわざ言うこともないはずだが、これを大きなスクリーンで見るデジタル修復版の凄まじい豪華さ。夜明けの焼けていく空模様、波模様、通り過ぎていく人影、あらゆる事象が光と影と彩りとなっていくのを見ながら、ただただ恍惚。
10分×10本。全部傑作。さすがに一気に見てしまうのは勿体ないんじゃないか。正直どれがどの映画か既に記憶あやふやだが、このほとんどが「一日」を扱っている。ほぼ10日間。10分近くがいつの間にか日が暮れて宵闇に沈み、エンドマークが出る。あっけない。しかしまたしてもジョージ・ルーカス財団の名が出るクレジット入って次の映画が始まる。再びデ・セータの映画が始まる。早起きして準備して、昼寝して待って、時が来たら全力で動く。または坂道を走り抜ける祭り。時にマシンでもない、獣でもないのに、なにか機関車が走り抜けるかのような音として捉えられる風の音、活火山の響き、麦の収穫。そうした音のサイクルと運動。画面に映る人々に対して、こちらはあまりに椅子に座って超贅沢な鑑賞。観客は罪深い。
それでいて内容は能登半島震災のことがしばしば無視できずよぎる。やはり観客は罪深い。
『メカジキの時機』は何を言ってるか意味不明だがグリアスンを通り越してキン・フーみたいな激しさでメカジキを追う! 『火の島々』の終始不穏な呻きのように響き続ける活火山(血のごとく滴る溶岩)。『硫黄の山』の真っ暗闇に響く歌声からの急転直下の展開(黙祷)。『シチリアの復活祭』の雨嵐を呼びかねない野外劇は天候を操りそうで、しかし自然の動きは人には操れない(ヴィスコンティと同じく彼もまた貴族階級出身らしいが、これから8年後のオリヴェイラ『春の劇』のことはやはり連想しやすく、そこではさらに無視できない帝国による災厄が雨霰と降り注ぐ)。諸々飛ばして、この見覚えある題名の『忘れ去られた人々』が最も一連の作品では政治的な意味合いを持つかもしれない(デ・セータの短編は映画館での本編前に上映されていたらしいが、どの作品もこうしたドキュメンタリーの枠では例外的に、政府の意向に沿わない題材だからか、資金援助を得られず、経済的には厳しい状況で作り続けたという)。初めて冒頭からトラックが現れて走り抜けていく一連の繋ぎを経て、モノローグが響き、この土地が開発中の工事の失敗により電力や交通から切り離されたままである旨が告げられるも、むしろ続く画面は暗い部屋でも輝く美しい金髪の娘。どこも危険な祭が好きねとハラハラする丸太登りに興奮。あくまで切り離されようが暗さを抱えつつエネルギーに満ちている。