7/16 『ライトハウス』『17歳の瞳に映る世界』

ライトハウス』を見る。話題のパンフレットは完売で買えず。で、この宣伝ビジュアルのくせにインタビューはエプスタイン除くと監督の口からドイツ映画ばかり出てくる謎。たしかに見てる間はグレミヨンの『灯台守』は特によぎらず。人魚とセックスするあたりでさすがに乗れなくなる。リンチというか、やっぱトリアー『アンチクライスト』ぽくなるなあと(デフォーが声だけ残して消えて若干ドライヤー『吸血鬼』風のカメラの動かし方をしようとしてるのか全然違うのかよくわからない、空間的になんだかおかしい廊下へつなげてしまうところとか、拍子抜けする。二年位前にアテネフランセで見た『デス・ベッド』というベッドが襲ってくる映画の方がまだドライヤーっぽいことをしようとしたという話も何となく納得する)。監督インタビューにラングの名前は出てきたが、それも全くピンと来ず(まだムルナウじゃないの?)。そういやデフォーは『グランド・ブダペスト・ホテル』でラングとシャークのチャンポンみたいな造形物にされてたが。クレジット最後にハーマンのメルヴィルの『白鯨』と実際の灯台守の記録をもとにしたと出てきたが、顔芸と言えばデフォーの扱いはメルヴィル『海の沈黙』ハワード・ヴァーノンっぽくもある。やっぱデフォーはいい。でもデフォーならフェラーラの近作が見たい。あとパティンソンだとクローネンバーグ思い出しちゃうしなあ、とか余計なことがよぎる。それはそうとシャンテの天井のオレンジ灯が気になって仕方なくて、つい最初5分くらいで「消し忘れじゃないでしょうか」と聞きに行ってしまった。でもあれは防災上必要な灯らしかった。でもそのオレンジがなんだか気になって、本作最大の売りの白黒画面になんだか集中できない。スクリーンサイズにあわせてカーテン閉めるとか絶対にしてくれないわけだし。

 

エリザ・ヒットマン『17歳の瞳に映る世界(Never Rarely Sometimes Always)』を見る。パンフレットはどこで売ってるのかよくわからず買いそびれる。
ピアスの穴あけが正直目をつぶりたくなる刺す行為そのものは、洗面所の鏡の扉と、顔の影に隠れてギリギリ見えないが、刺さった状態はしばし続く。
木下千花論文や(三宅唱監督の)『呪怨』をめぐって云々あった時に話題に出てきた堕胎ビデオ(同じものではないと思う)が最初だけ出てくる。こういう時にドリス・ウィッシュマンの性転換映画の存在がよぎる。ドリス・ウィッシュマンの映画について、スクリーンいっぱいに映る性器の切除に、興味本位の観客たちを後悔させたというようなエピソードには惹かれるものがある。「見たいものがわかっていない」といわれるドリス・ウィッシュマンの本領発揮ともいえる話。しかしそこでの「見たいものがわかってない」とは何だったのか。
エリザ・ヒットマンの映画をわりと真正面で見たが、コンロの火とピンセットの登場に、ものすごく痛いものを見ると恐怖したが、ギリギリそんなことなく済んだ。それでも「見たいもの」からの微妙な距離の置き方が印象に残る、といえばいいのか。うまいんだかうまくないんだかわからない歌も、頼っていいのかわからない男も、反射した窓に隠れるものも、避難所のように何度も出てくるトイレも。特に柱の影の行為の曖昧さは、それが正面へカメラが回ったようでも、そこにあらゆる真意や責任は掴めない。愛か、性欲か、善意か、金銭を巡る強制された行為か(やはりこの面は確実にある)、いとこための行為か、そのどれもが宙づりにされている。

 

シャンテにて金もないのに一般料金で映画を三本、今日は見なくてはという気分だった。エリザ・ヒットマンの映画と『ライトハウス』の間がどうやっても時間が開いてしまうので、どうしようかと日比谷でボンヤリしていたら、ワニの映画が目に入った。
『カメラを止めるな』を見たんだから、これも何かの縁だと(絶対に悪く言って話のタネにすることしかできないとわかっていながら)ワニの映画を見た。またしても前半と後半が分かれている。ご丁寧にワニが死ぬ日の話は最初と、後半戦の始まる前と、二回も出てくる。前半はたぶん漫画の話まんまなのだろうが、本当に100日全部やってるわけではないだろうし、これが本当に四コマで済んでいたとは思えない。主人公のワニだけは常に半裸。だからといっては失礼だが、善良な動物ばかりの映画の中でも特に馬鹿っぽさが際立つ。そして同じ種類の動物同士が結ばれることになる(でもあれは犬なのかモグラなのかわからない)。
ワニが死んでから、雨と共に蛙が出てきて(蛙は蛇?トカゲ?のことが好きらしくて一方的にアピールするが爬虫類と両生類とでは結ばれない)、彼はなかなか輪に(ワニ?)収まることができない。居場所がない。でも最終的には収まるべきところに収まる。ワニの不在が埋まるまでの百日間という解釈を残酷ととるか善良さととるかどちらともできるのだろうが、とにかく収まるべきところに収める。前半が死ぬに決まっているワニが中心なのもゾンビ映画と同じく、死体への想像が隣り合わせの世界とかなんとかいろいろいえるかもしれない。
『カメラを止めるな』の時は仮想敵くらいに不愉快だったが、なんだかんだそれなりに人の入ってはいるが小さな劇場でまたしてもワニの映画を見てしまった。それは高橋洋の話でいうなら、これまた人の善意をメシのタネにしようとして時の流れに負けてしまった映画『一杯のかけそば』を救済したいという感覚なのか? でも別にワニの映画は『カメラを止めるな』と同じく、「映画ではないとは何か?」と言いたくなる感覚以上の興味はない。「収まるべきところに収まる」話にしようとすると、これでもなぜだか小津調のパロディみたくなるのだから恐ろしい。