「」(Frame/Border) 企画:そこからなにがみえる 感想

「そこからなにがみえる」の企画【「」(Frame/Border)】へ行く。
『王国』明転上映では、薄明りの中での(ある意味では観客に対して優しくない)上映のスタイルが、作中の人物の「役」なのか、その人自身というものかわからない姿を見ているこちらも「観客」になりきれていないかもしれない段階に置かれる。どこか映画館の暗闇の中での上映こそ最良の環境とはいえない、あえてインスタレーション的かもしれない上映を選ぶ映画作家には、自作の映像の置かれる状況に対する意思があるかもしれない。今回の上映も外の光を遮断する厚いカーテンはなくモニターに観客であるこちらの姿が反射し映り込むため、黒画面は自分たち観客の姿を見ている気になる。決してその環境を上映会場としての不備と言いたいわけではない。また映画館というものを否定するわけでもないし、そのような主張を上映企画から感じ取ったわけでもない。ただ今回上映された三作はどれも「話を聞く」姿勢は要するものだが、それが暗闇での一対一ではスクリーンの存在が大きくなりすぎてしまう、それを避けたかったのだろうか……など意図を想像させる。ひとまず勢いで雑話会では意気地がなく言えなかった感想を書く。
ともかく一本目の『to-la-ga』(玄宇民)の作品から(それは音響というよりも)発音の聞き取りにくさに、そのままこちらも甘えるように映像に身を任せてしまい、だからほぼ語りから何も連想できなかったが、『to-la-ga』の移動撮影にはこの上映会三作品に共通する、なぜか移動ではカメラが揺れるという(しかしその揺れもまた作家たちの状況と通じるのかもしれない)カットが夜の空港にて映される。そして「豚肉は食いたくない」という言葉だけは草木とともに嫌でも残る。また最も作家自身の出自らしきものと作品の印象を繋げやすい、かつ短すぎる印象の一本だけに、この作家の他の映画がどうかを(失礼ながら)知らないまま見たことが十年前の作品にも関わらず古びずに印象に残った。
『Home Coming Daughters』(草野なつか)は一転して白さが印象に残り、そして『王国』に続き、テクストに対する話者の目の動き(それはどこか時計の針の動きを思わせる)とリズムがこちらの集中を内容と画面との間で引き裂く(そうした事態の最たる醜い例の一つが安倍晋三の英語かもしれないが)。この目の動きが、室内から一転、飛行機の音(これまた上映会場の外から聞こえる自動車の音と重なって混乱する)とともに木々を映す時の定まらないカメラの左右への動き(横切る蝶が目につく)、そしておそらく母から娘の引っ越しについて話が移ってから(それは光の明らかかつ歪な変化と共に)、いったいどこを見ているのかという目の動きがテクストからも話者を引き離す。『王国』ではテクストへの目線が、死んだ子供への目線を連想させることになるが、ここでも目の動きが母と娘の距離、(『王国』でも言及された)すべてがあるべき場所に収まっている「家」というものに対する馴染めなさを印象付け、それは実際の家の映像が映って音声が重なる時は一転して淀みなく聞こえるが(これは上映後の「雑話会」にて池添俊氏が指摘していたが)、淀みないほどにこちらの意識を平然と過ぎ去っていき記憶に残らない(が、これも意図したことだろう)。話者のいる舞台の白さとテクストの白さ、衣服の白さ、それらが馴染めないほどに浮かび上がるものがある(ところで見ながら今日が最終日の北島敬三「UNTITLED RECORDS」に行きそびれたことを思い出した)。
『燃えさしの時間について』(遠藤幹大)を見ながら『ザ・ミソジニー』(高橋洋)を思い出すのは失礼だとは思うが、まあ、しかしこの撮り方こそが『ザ・ミソジニー』に対するカウンターだと(製作年は逆だが)勝手に納得した。あの音は西山洋市監督の成瀬巳喜男からいただいたらしき按摩笛の音を思い出したが微妙に違うだろう。ともかくそうした連想に留めるのが作品の幅を狭めてしまうなら、とにかく三人の女の霊のうちの一人を西山真来が演じていたのが何よりよかった。『へばの』(木村文洋)『夏の娘たち』(堀禎一)以外では(今まで自分が見た映画に限った話かもしれないが)たしかに『寝ても覚めても』でも『スパイの妻』でも扱いが悪い。その顔立ちがどこか端役として収まりきらず、本作の幽霊としてずっと居続けているだろう状況、つまりどこからきてどこへ行くのかはっきりわからないが、そこにいつづけているという時にようやく収まるんじゃないかと思った(それを嫁入り前の原節子がいる家の不自然さに近いと言っていいのか)。『へばの』や『夏の娘たち』のように、そこに居続けた人、そして出ていくかもしれない人として(映画作家の側がその存在としっかり向き合わない限り)恐ろしく勿体ない扱いの脇に置かれてしまうということなんだと、ひとまず勝手に納得した(ただ『へばの』や『夏の娘たち』のように、汗をかき、涙を流し、白い息を吐く生きた「人間」として収まっている時の方がより感動的なのだが)。