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バッド・ベティカー『決闘コマンチ砦』を見直す。ダグラス・サークのインタビューに出てきた、マーティン・リットにはない新しさ、古びなさとは。インタビューでは『八ド』の名前をあげていたが(そこには「いとしのクレメンタイン」を映画館で歌う、何らかの終わりを印象付けるシーンはたしかにある)、たとえば『ノーマ・レイ』なら見る側を導こうという、勇気を与えようという意志はある。それでも『決闘コマンチ砦』を改めて見直すと、こちらには映画が今、ここで起きる出来事を見るしかないという方へ向かわせる。しかし『ノーマ・レイ』でもあった運動もまた、古びてしまったと感じさせるなら、そこには『発見の年』(ルイス・ロペスカラスコ)のことを思い出さないわけにいかない。
ナンシー・ゲイツの登場から、馬に乗った彼女を下から見上げるショットと、ランドルフ・スコットの「下りずにやるのか?」という声、それからコマンチ族の襲来を経て、水桶に放り投げるというか飛び込むまで、彼女の場面ごとの変化を見守ろうという意識がどこかある。はじめて懸賞金のことをクロード・エイキンスらとのやり取りから聞かされたナンシー・ゲイツランドルフ・スコットから離れて、エイキンスの腕にでも抱かれようとしているかのような危うさを一瞬よぎらせるくらいに近寄ってから、それでも彼にも構わず一人離れていく演出は、動線の指示は当然していたとしてもナンシー・ゲイツに意識させていなかったのではと思わせる点も含めて、そこには人物間で今どのような変化が起きようとしているのかを見続けなければいけないと注意させる。ランドルフ・スコットとクロード・エイキンス二人の馬に乗りながら続く会話を追い続ける長回し(両者の曖昧な、緊張感もある関係が見事に現れている)に始まって、五人の横移動がカットごと、場面ごとの緑や砂や岩、アメリカの夜ふくめた色彩の変化も合わせて目に入り、特にランドルフ・スコットが先導して馬に乗ったまま水を渡る場面の、深さを先に確かめてから進んでいく時の、五人の人物たちの間に最終的には噴出する衝突が既に十分起こる予感はあるのに、この場面ではあえて先送りにして馬に乗って水を渡る共闘関係だけがある(マイケル・チミノ『サンダーボルト』の悲しさを思い出させるが、サークの映画から名前をいただいた作品だ)。クロード・エイキンスの企み、またはスキップ・オーマイアーの死がどのような変化が起こすか。夜、懸賞金の話題からクロード・エイキンスを軸にランドルフ・スコット、ナンシー・ゲイツそれぞれが映り込む側へカットバックするシーンの後にスコットがエイキンスを殴るまでの、おそらくすでに書かれた内容であったものがいかに目に見えるか、言葉がわからなくても声が目に入るような、言葉が撮られているという感覚さえする。特に相方を失くした(優しすぎる、とエイキンスに評される)リチャード・ラストとナンシー・ゲイツの夜の川沿いに面した樹々でのカットバックは、そこで聞こえる鈴虫の音が中抜きされたカットごとに異なる点まで、「俺らは見境がないから……」などと言いながら、最終的に何かあったらランドルフ・スコットの方へ行けと言う、こうしたリチャード・ラスト演じるドビーのこともカットごとに見守る必要が要所要所強まっていき、それが最終的には彼の悲劇に至る。クロード・エイキンスは死に際に「単純に悔しい」とだけ発することになる。
こうしたカットバックを注視しながら言葉を目で見るような感覚はそもそも冒頭のコマンチ族との交渉の場面での「勝手にしろ」までランドルフ・スコットの言葉が聞き取れないのだが、それでもインディアンとの手を使いながらのやり取りを見続ける時点ではっきりしているかもしれない。ナンシー・ゲイツからある告白のような言葉をかけられて、カップを手にしたランドルフ・スコットが動きを止めるところをカットバックする、声を発しない側と、声をかける側のカットバックが感動的なのも、彼にとっては返す言葉はカップを口元で止めるという反応だからだろうか(ロバの傷薬を塗られた馬と同じように、うめくスコットの言葉にならない姿、唸り声の魅力が本作にはある)。一方、フランクとドビーというほとんど字を読む教育を受けていない二人が駅馬車の時刻を読むくだりも序盤にあり、最後にはナンシー・ゲイツの夫は目が見えないこともわかり、この旅の始まりと終わりにこうした「盲」が用意されている。ここに伊藤大輔のことを思い出してしまうのは井川耕一郎氏の受け売りに過ぎないのだが、それでも映画そのものの在り方について考えさせる。盲目の主人は、ランドルフ・スコットの存在も知らないまま、懸賞金のこともはっきり答えはないまま、ただ彼女が一人帰ってこられたかのような感覚だけ残していく。おそらく彼も妻に多くは尋ねないだろう。本作は『捜索者』と『馬上の二人』の間に撮られていて、撮影は『馬上の二人』と同じくチャールズ・ロートン・Jr.になる。

 

ジュリアン・デュヴィヴィエ『商船テナシチー』コズミック出版のDVDで見る。なんとも凄いスクリーンプロセスでの南国の島のフラダンスから始まる。この画質が悪いせいか、さらになんとも実験的な映像と化していて、しばらく目で見たものを脳内で把握できず。まるでスクリーン内をキートンみたくさまようような光景に唖然としてると、これがまた実は映画内映画だった。上映が終わると、さっきまでと真逆の夜の湿気た街並みを労働者たちがぞろぞろ帰る。映画の撮影現場でエキストラの仕事をしたりしてるが、主人公二人組のうち一人アルベール・プレジャンはカナダにて一山あげる夢がある。その実現のために友人を巻き込んでル・アーヴル港へ。そこで会った宿場の女中テレーズに二人とも惚れて…最後はちょっと悲しすぎるが。でもバカンス映画の作家に引き継がれるテイストが終始ある。最初の船出で船上の男二人の頭を超えて、カメラがロングの俯瞰で見送る彼女らしき小さな人影たちを捉えるところとか、他にも一々言うまでもないくらい撮影充実してる。