トマス・グティエレス・アレア『悪魔と戦うキューバ人』(71年)

『理大囲城』を見た時に『レボルシオン 革命の物語』がよぎって「そういえばトマス・グティエレス・アレアの映画をどこかで上映するな」と思い出したら、結局この国立映画アーカイブの上映だった。
ユーロスペースでの『低開発の記憶』上映をはじめ、ケイズシネマでの特集(たしか『12の椅子』『ある官僚の死』を見た)や、『レボルシオン』『苺とチョコレート』にしても、作品ごとに異なるスタイルを選んでいるという印象だが、『悪魔と戦うキューバ人』もまた違う。
海賊に犯された女が、牧師の十字架を前に悶え、狂い、悪魔に憑かれていると言われる。一方でスペインからの占領者たちは、この町が異教徒相手に密売などしてきた神罰として海賊はやってきたのだとも話している。これは信仰をめぐる映画ではない。自由を求めての闘争についての映画だ。というのも冒頭の語りによって意識されたことで、その主題の強度は1600年代のスペイン占領期が舞台にしてはあまりに生々しく揺れ動くカメラによって捉えられる乱痴気騒ぎを見ている間も徹底して失われない。『レボルシオン』(60年)がロッセリーニ『戦火のかなた』(46年)のことを意識させ、『ある官僚の死』(66年)にメキシコ時代のブニュエルを思わせる黒いユーモアが貫かれていたような印象(『悪魔~』の牧師がある人物の笑いを見るところに『エル』は連想した)、『低開発の記憶』(68年)がまさにヌーヴェルヴァーグというか闘争からも距離を置く倦怠感のような(ただどれも前に一度見たきりだから今見ればまるで違うかもしれない)、そうした結びつきで言うなら『悪魔と戦うキューバ人』はグラウベル・ローシャや、ジャン・ルーシュの『メートル・フ』ある意味では同じ71年のデニス・ホッパー『ラストムービー』にも通じる、儀式の再演についての映画か。映画自体もどこか冒頭の祝祭と惨劇を、儀式として再演しようとするかのように捻じれていき、混沌としていく。混沌としても、人物の出し入れの演出にはブレがない。モノクロのスクリーンが真っ暗になったかと思いきや、写真の点滅(はっきりとは見えないがキューバ革命を撮ったものか?)を経て、炎というかまさに「白」が画面を覆う。そこにアピチャッポンが少しよぎったとしても、また頭が話を追い切れていず、うまく思い出せないとしても、そうした催眠効果は一切ない。子豚をリンチして棒で叩き殺す惨いショットもあるので注意は必要だが、松明をフルスイングする時の聞いたことない音の波が響き続け、アレクセイ・ゲルマンヴィターリー・カネフスキーへ引き継がれていくようだが、やはりどことなくロッセリーニの映画で見られそうな人と場での呆気ない奇跡が起きて、自由への戦いという主題は閉じられることなく、おそらく継続されていく。

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