ドロシー・アーズナー『ナチに愛された女』スタイルは全く違うがアラン・ドワン並に何本でも作れる監督の映画に見えたが、相変わらずの勘違いだったら申し訳ない。スクリーンプロセスの安っぽい追跡劇と爆破を終えた途端に、ラストの坂道を包む煙がいいのだが、振り返るな、と男は言うが、彼女は男の言う限度を超えてでも危険なスパイ活動という舞台から降りることなく、再び坂道を上ることを選ぶ。

梅崎春生桜島』を読んで、アルチュール・アラリの『ONODA』が出来たなら、『桜島』を映画にすることだってできるんじゃないかと、素人の想像の足りないところかもしれないが、でも何のボタンの掛け違いかわからないが、アルチュール・アラリなら小野田を主役に撮ってしまうことが許されて、レオス・カラックスが東京の地下に南京大虐殺に使用されたかもしれない銃器を作らせるという倒錯した事態は起きて、今『桜島』を映画にしたり、かかる予算が桁違いなんだろうが『退廃姉妹』や『神聖喜劇』が映画になることはなく、塚本晋也監督『野火』もあれでよかったのかわからない。たしかに『ONODA』を「見ない」という選択はあったかもしれない、というか、良かったと思うのが、ちょっと暢気だったかもしれないが、はたして。

自宅にてヴィンセント・ミネリ走り来る人々』。これをオールタイム・ベストにあげている方がいるのを知っているから、あまり安々と感動したとか言わないほうがいいかもしれないが。人の言葉を借りるなら、これほど「大人の映画」だとは思わなかった。今まで見たディーン・マーティンの中で最も忘れられない佇まいをしていて、『ゴッドファーザー』3部のアル・パチーノはここから来たのかもしれないともよぎる。シャーリー・マクレーンという女優は本当にかけがえのない存在だが、しかしこの映画にヒロインと呼ぶべき位置は存在していない。フランク・シナトラの嫌悪感さえ催す愛情表現が「今こそ見るべき」なのかともかく、そこにロマンスを欠片も感じさせない。ただ黒い影が不意に現れる。葛藤の飲み尽くされたような世界。映画はドラマだが、ドラマだけじゃないかもしれない。レナード・バーンスタインの音楽もききながせないほど、画面に寄り添うだけには留まらない。劇伴かと思いきやアンプから流れていた曲として、人物がスイッチを切る演出に不意をつかれる。これはあくまで映画内の人物の意思によって止められる。シャーリー・マクレーンのかけがえのなさは、それが理解能力を欠いたアバズレ扱いされながら、なお彼女には両思いなどなくても、片思いでも結ばれるリアルさがあるから、そこにはスイッチを切る程度の何かを感じる。

珍しく早く終わったから仕事帰りにマイク・ミルズ『カモン カモン』見る。ホアキンいい。マイク・ミルズ嫌いじゃないつもりだが、はっきり良いと言うには、見ていて取り留めがなさすぎて、いつまで見させられるのか、はたしてそろそろ終わるのかわからず、不安を覚える。ちょっと息抜きのつもりが、やや長くてしんどいことにショック。繰り返すが、ホアキンの好演というか、ホアキンがいいから見ていられる。これ以上自分の心が狭くなったら途中退出していたかもしれないが、それでも映画は最後まで見なきゃわからないものに違いない。携帯の声から離れて少年が駆け出した時に、ようやく映画が終わりに近づいていると時間を掴めた気がする。まあ、でも長いか。