サム・ライミドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』。よく前提のわからない魔法使い同士のバトルに『死霊のはらわた』や『ギフト』や(あくまで自作としての)『スパイダーマン』の空気が紛れ込んでいるという意味では『オズの魔法使い』でやってくれたことの延長だが、『スパイダーマン3』といい、2時間ちょっとの話にぶち込むのはさすがだと思う。エリザベス・オルセンの哀しみも伝わってくる。披露宴からあっさり始まるバトルを見送るレイチェル・マクアダムスがよかった。これほど自作に寄せたクライマックスに何だかんだ見てる側もブチ上がるタイプの監督というのも今後育つんだろうか。なんとなく予告だけ見て仲間だと思っていた相手があっさり悪役とわかり、過去作では格闘してきた悪を決死の覚悟で味方に回す。エンドクレジット後も必見。カメラを傾けた恐怖演出によって本当に足元のゆらぐ不安を呼べるのはジョー・ダンテサム・ライミ以外だと現役では誰がいるか。でも『スペル』の豪快な鼻血ブーを思い出すと、今回のゲロが見えないのは物足りなかったか。いや、別にゲロはみたくないが。あとは『鳥』経由のヒビ割れが『シンプルプラン』どころか『死霊のはらわた』まで遡ってライミにとっての一貫した主題かもしれないとは思った。息子の見るテレビ番組も非常に心かき乱される魅力がある。

国立映画アーカイブ羽田澄子を忘れていて見逃す。悔しい。同タイトルの映像作品、シルヴィア・シェーデルバウアー『元始、女性は太陽であった』が上映されるイベントを見にドイツ文化センターへ。『ポーラX』を結局再見しそびれる。
ケン・ジェイコブス流のフリッカーによりフッテージや写真が文字通り立ち上がろうとしていた。
一方の小田香『カラオケ喫茶ボサ』は8ミリ、喫茶内のプロジェクター、アクリル板と反射、出演したママと常連客らの顔の皺という、距離感の狂う画に魅力がある。映画を見ただけではママさんが実際に小田香の母であることはわからず、インタビューの質問が「60年後についてどう思われますか」だったとはわからない点が抜きん出ている面でもあり、危うさなのかもしれない。なぜ常連客からウクライナの話を聞くのか、なぜ彼女たちである必要があったのかはわからない。ただ今、目の前にいて、今ウクライナで起きていることを身近に感じられてしまうのは、一種感傷的かもしれないが、そこに没入することを今回も試みる。小田香にとっての鉱もセノーテも、どれほどの必然性がある道程なのかは小田香のモノローグを必要とするかもしれないが、小田香はやはり映像とモノローグが同機せず引き裂かれる。それはゼロ距離というほどの映像の近さといえばいいのか(河瀬直美が何かに触れようと繰り返すのに近いと言っていいのか、それは慎重にならなければいけないが、『おもひでぽろぽろ』のヒロインに託された危うさでもある)。比べるべきかわからないが、これは小森はるか氏とは真逆の特性かもしれない。小森はるかの映画に出てくるミニマルな世界を作る人物たちの理由というか衝動は、ウクライナと喫茶を結びつける小田香の映画には少なくとも映されない。舞台となった喫茶は緊急事態宣言下により撮影日だけ久々に開店したという。そこの人たちからは「爆発するように言葉が出てきた」らしく、その爆発は記録されていた。