『美しい術』『適切な距離』(監督・脚本:大江崇允)@早稲田松竹

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早稲田松竹にて10/10まで18:35~上映。

 

久々に大江崇允監督・脚本の『美しい術』(編集も兼ねる)と『適切な距離』を見直す。
『美しい術』は10年近く前に見た時以上に、劇中で言うところの「東京の海」ばりのくすんだ視界の画面に見えて「こんなだっけ」と驚いたが、そして主演女優二人の境遇もどう考えても明るく開けたものではないのに、それでも輝きが失われてない。瑞々しさも輝きも以前より増して見えたように感じた。冒頭の黒画面は以前よりも真っ暗に感じ、そこから最初に主要人物が映ったはずなのに隠れて見えない戸惑いも、そして「犬も歩けば棒に当たる」のくだりも、何もかも初見時より不意を衝かれ驚いた。大江崇允監督の演劇出身というキャリアが面接の場や、本作の女優二人のルームシェアの空間や、オフにされた状況や、人物のモノローグなどに反映されているんじゃないかという点は次作『適切な距離』により印象付けられることだろうが、そのようなことは『美しい術』を見ながらどうでもよくなってくる。本作のスタッフ・キャストが当時何を思っていたかはともかく、本作からは「映画には、何かができるんじゃないか」という、だから「映画を撮らなければいけない」という信念に貫かれている。そこに「このような映画を作りたい」ということや、もしくは「他の映画と違うことがしたい」ということより何より「映画ならば何か事態を変えられるんじゃないか」という、映画を選択した必然性がある。その意思が黒画面にもフレームにもモノローグにも演出にも物語にもある。この強い姿勢は滅多に見られるものではない。しかも(本作冒頭にクレジットされるように)「第一回監督作品」でしか、まずは挑戦できないことかもしれない。それは他のどの映画にも似ていないということを指すわけではない。「コミュニケーションの問題」としてはゴダールにも繋がるが、何より「現代において奇跡を起こすことは可能か」という問題ならばロメールにも通じる。かつての職場の同僚にして不倫相手の妻とカフェテラスにて会話を交わす場での、二人の女のカットバックにて何かが起こるんじゃないかという危うさは「ロメール的」と評されかねない(そこには『ドライブ・マイ・カー』も含まれるか?)映画以上にスリルがある。それは不倫をめぐるサスペンスとか、シナリオレベルでの緊張感ある状況の演出というよりも、単純に土田愛恵を捉えたショットに、妻のコーヒーを持つ手元に、そのどちらも不測の事態が起きてしまうんじゃないかという暴発の危機にある。この暴発の前ぶれは森衣里をめぐる他殺・自殺含む死の予感からテーマとしては印象付けられ、ちょっと笑える後輩への蹴りにもあるし、屋上での床にしゃがみこんだ彼女へ主観ショットのように俯瞰気味に近づく場面にもある。カフェの場面を経て、土田愛恵が赤い服に着替えてから、台詞では「就職が決まった」などあっさりと事態が変化したかのように言いながらも、その真偽が定かではない(というよりこれは噓なんだろうと思ってしまう)彼女の佇まいはさらに危うく、そして本作では解決のない三角関係の問題など、二人の女性が入れ替え可能であったり、同じものを見ていたりすることが原因なのかはともかく、何かが耐えきれずに噴出してしまう可能性はいたるところにある。それでも本作の「奇跡待ち」の結末は『空に住む』のラストの背伸びのように、そしてタイトル通りに「美しい術」のように見える。
『適切な距離』も初見ではわからなかった、もしくは忘れていた「気づき」が至る所にあって、本当に考え抜かれた映画だったと同時に、入り込めるまでに『美しい術』よりも時間はかかる。それでも何かが起こりうる予感は電車内での、ある人物の姿が影になる時の闇の暗さ(繰り返すが今回の早稲田松竹での上映が一番暗く見えた)、その後の父・母・恋人のいる家へ入ってからの『ポゼッサー』にはおそらくなかった真の危うさがある。

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