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クラリッセ・リスペクトル『星の時』読みながら、実在するだろう人物を見ること≒空洞と向き合うことというような感覚が、『包む』や『赤い束縛』の唐津正樹監督のことを思い出す。『赤い束縛』の「アサイ」という名前は忘れられない。リスペクトルをその範疇に入れていいのかわからないが、唐津さんはラテンアメリカ文学への関心があり、また(シークレット上映だったが時効と勝手に判断して名前を書いてしまうと)自作の併映が『忘れられた人々』だったが、「ブラジルのヴァージニア・ウルフ」、またはオラシオ・カステジャーノス・モヤ『吐き気』の「サンサルバドルのトーマス・ベルンハルト」といい、知ってるつもりの名前が「メキシコ時代のブニュエル」みたいに中南米からやってくる。それこそ「マジックリアリズム」なんだと言われればそうかもしれないが。アントニオーニよりは唐津さんの映画から受けたものに近い。

唐津監督も『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督も横浜の「未来の巨匠たち」でまとめて見て、『ドライブ~』脚本の大江崇允さんの名前を聞いたのはおそらく半年後くらいの大阪が初めてで、唐津さんも大江さんも(そして桝井孝則監督も)関西方面の作家の名前には関西という必然性はたぶんない(そこで撮る意味がないというわけでは全くない)。ただ『VIDEOPHOBIA』が関西へ行くのは(西尾孔志監督の登場ふくめ)明らかに関西へ行き映画を撮るという企画があった。『VIDEO~』のワークショップとカウンセリングのパートに濱口『ハッピーアワー』を思い出す知人はいたが、明らかにキャスティングまで含めて『大和』に続き『適切な距離』(監督:大江崇允、これは宮崎監督のシネマロサでの企画にちゃんと入っている)のことは参照されていた(そこでカットバックから暴力の発動によってアングルが傾くという変化はパンフで廣瀬純氏も指摘し、また本作から『適切な距離』への批評かもしれない)。
『VIDEOPHOBIA』は存在するかもわからないカメラに監視された女性が整形して逃亡を試みる。それが成功したかはさておき、やはり撮影・渡邉壽岳だからなのか、カメラは逃亡先へ先回りしたように最後は彼女の身体に重なる「手」がフレームに収まって終わる(終わったのか?)。正体不明の監視者の存在はともかく、映画にとって「カメラは既にすべてのアングルに置かれてしまった」ということなんだろうか。顔を変えても中身は変わらないと解釈もできるかもしれないが、それはむしろ見てるこちらが都合よく受け止めてるだけ、でいいのか?
「中身」は大江・唐津の映画に避けられない主題というか、たぶんほとんどの映画に関わらされるはず。大江さんの映画も分身が出てくる。『寝ても覚めても』も分身が出てくる。その辺の違いはここでは書かずにまた今度考える。唐津さんの映画は「包む」の中身がなければゴミと同じと捨てたはずのもの(母親からの贈り物の「風呂敷」だったか「匣」か、忘れてしまった)を、思い返して拾いに戻る。この走って戻る感じはホン・サンス『逃げた女』に近いといっていいのか(無理やり自分の狭い記憶に当てはめる)。キム・ミニに唐津監督のヒロインたちに近い(ただしミューズとは明らかに異なる)空洞を感じることにして今日は終了。