ウダイ・シャンカル『カルプナー』

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https://www.nfaj.go.jp/exhibition/cinema_ritrovato202312/

国立映画アーカイブにてウダイ・シャンカル『カルプナー』を見る。
カルプナーとはヒンディー語で「想像、空想」らしい。映画の冒頭には、本作が風変わりな空想物語であること、展開の早さに観客はついていけないかもしれないことが(そしてうろ覚えだが恋愛・政治・階級など様々な題材を横断する作品であること……が記されていたように思う)監督により記される。この説明に偽りはない。瞬きするうちに人物が落下し、しかし気がつけば戻ってくるような、出鱈目に目まぐるしい映画だった。
高橋洋だったか、以前にグル・ダットが大作でも監督・主演を兼ねることの許されたインド映画の流動的な製作を指して「自主映画のような」と評していた覚えがある。本作の監督ウダイ・シャンカルも原作、製作、振付、主演を兼ねていて、そもそも彼がどれほどインド舞踊史において外せない重要な存在であるかを不勉強から一切知らなかったのだが、しかし本作の印象もまた「自主映画」と言いたくなる、ある自由さを賭けて作られたような映画だった。
グル・ダット、リッティク・ゴトク、サタジット・レイらの主な活躍は50年代以降だが、本作は1948年の映画であり、インド独立翌年の作品にあたる。インド映画に関するイメージを裏切らない歌と踊りが大半を占める映画だが、その踊りはフルサイズと、やや仰ぎ見るようなミディアムの組み合わせなどハリウッド影響下の撮影所時代の映画らしい見事さだが、一方で繋がらないはずのものを繋げたような、または『勝手にしやがれ』より早いエピソード自体を飛ばす勢いのジャンプカットと言ってもいいような歪さ、または映画の自由さが一体となっている。クレショフ工房など一部のソ連映画の志した自由さ、またはマキノ雅弘の雑食ぶりを見るような無国籍の映画……たとえば『メトロポリス』を彷彿とさせる「人間機械」の工場が現れるも、そこでは蛇のようにうねるシャンカルの筋肉を見るカットが異物として忘れがたく見惚れるうちに、一方で彼をレールに乗せたのか、カメラがレールに乗っているのか瞬間的にわからなくさせる後方への移動撮影など見事な技術に驚く。この混沌ぶりをアジア圏の映画らしさと受け取れるかもしれないが、インドという国に縛られない歌と踊りの連なりが映画そのものの凄さとして印象づけられる。
この出鱈目に見えた映画も「美術アカデミー」の建設から、どこか現代映画を先んじたような(赤坂太輔さん風に言えば「上演の映画」的な)面が主題と共に強まる。床に四つに裂かれた布の「分断されたインド」のイメージ、ヒンディー語だけでなくベンガル猫、タミル語テルグ語のキャスター達が読み上げるニュース、「アジア各国の踊り手」を記録した質感の異なる映像の連なるモンド映画的にいかがわしくも研究めいて、かつ過剰な連なりのパート、そしてインド北東部ナガ族のダンス(「これをアフリカと見間違えるのは偏に無知によるもの」「ハリウッドはインドをアフリカ化した」)…これらインドをめぐる「夢」の「上演」がどこか『パノラマ島綺談』さえ彷彿とさせる奇想に近いレベルで繰り出されるが、その破綻寸前の連なりが夢想の忠実な再現であることを裏切って、この目と耳で体験しないと伝わらない狂的なものになる。
そもそも本作はある脚本家が「金にならない」と映画会社に断られた自作を「子供たちの未来のために」映画化の説得をすべく読ませている設定だ。ある意味ではグル・ダットに通じる映画製作、創作行為にまつわる映画かもしれず、またフェリーニと異なり「実現されなかった夢」についての映画だ。夢と現実、生と死、階級社会(時に性的な役割)を行き来するだけでなく、いわゆるセット撮影と、映画内の舞台のセットも交互に現れ、判別つけにくく、どこか映画の入れ子構造ともいえる迷宮らしさを強める(ミニチュアの多用も興味深い)。さらには二重写しの映像が魂の離脱はじめ、映画の上にさらに映画が重ねられているような(エピソード間にオーバーラップも多用される)、どこまでもイメージを上塗りしていき果てしなく、同時にスクリーン≒平面しか実はない錯覚をもたらす。または様々な人物から発する奇声に叫び声が悪夢のようでもあり、夢を突き破るようでもある。少年時代に女形に扮装して舞台に上がり、または少女から足を石で叩かれる暴力の痛々しさに始まって、冒頭から人物のイメージも激しく揺さぶることを繰り返す(その振り回すさまが文字通り渦を巻く回転運動になる)。やがてクライマックスは終わりなく続く金銭の話であり、それはたくさんの札束だけでなく、もはや感覚を麻痺させる呼び声でもあり、何より映画を支える「夢」と隣り合わせの空虚な実在だ。映画作りには金がいる。金がないなら自分で勝手にやるしかない。金になる夢しか求められないなら、一体未来はどうなってしまうのか、この絶望は今の日本にも響き続ける。

野田真吉『冬の夜の神々の宴』『生者と死者のかよい路 -新野の盆おどり神送りの行事』『谷間の少女』『機関車小僧』@国立映画アーカイブ

ようやく国アカにて野田真吉特集。
『冬の夜の神々の宴』は想像していたよりアヴァンギャルドというかヤバい映画というか『くずれる沼 あるいは画家・山下菊二』と近い印象(撮影も同じく長谷川元吉)で、まさに呪術と儀式を見ている。何の音声もなく冬の山村の斜面を映した冒頭(本作と『私をスキーに連れてって』のカメラマンが同じって面白い)から時間が止まっているような。湯気が画面を覆って距離感も狂う。
未見の(そして今回も見れない)『ふたりの長距離ランナーの孤独』が東京オリンピックのマラソン中に乱入した男の映像を反復した作品とは読んで、気になり続けているが、この(オリンピックとは異なる祭りの)儀式も反復を見ているような感覚に陥る。時間は間違いなく過ぎているが、見ている自分もリズムの繰り返しに囚われる。長さを感じるようで、止まった世界にいる。うんざりさせるようで興奮する。本当にこういう映画が最も見たい。映画という本質的には時間泥棒の世界の真実に対して、儀式を見ながらトランスしていく感覚。グラウベル・ローシャジャン・ルーシュあたりか?
『生者と死者のかよい路 -新野の盆おどり神送りの行事』は実は悔しくて配信で見てしまったのだが、今回映画館で見て、焦って自宅で見たことを後悔する。この扇を持ってエラいたくさんの老若男女が同じ振付を、しかし動きにバラつきはあってもやってる。この特殊で異様なのに、なぜだか不気味さや不健全さはまるで感じさせない凄さを見せるカメラ位置(緩いようで見事)、たぶん自分がこの祭りを記念に撮っても、この異様さと何気なさが一緒くたになった状況を伝えることはできない。ロングで延々とこの列が続いているのを見るヤバさ。これまた延々と続く反復で時間間隔がおおいに狂うのだが、何より凄いのはエンドクレジット後に暗転してからいつまでも終わらない点で、何人か既に立って帰ろうとしているのに、まだまだ終わらない。ずっと歌が続く。黒画面で延々聞かせて、それから再び字幕が出て、ようやく「完」と出るのだから、この長さは確信犯だ。『一万年、後….。』を国アカで見た時は何とも痛快だったが、その時を思い出す。
一方で一気に初期に戻って『谷間の少女』『機関車小僧』の二本を見ると、本当にこれが『忘れられた人々』を連想させつつも普通に感動的な子供たちの映画で改めて驚く。『機関車小僧』の機関車を追う映像の端正な繋ぎに対して、そこから並走しようと自転車をこぎ出す少年の現れる場面から活気あるのだが、終盤の機関車に追いつかんと走る彼に対して通せんぼした相手の前で、少年が岩を持ち上げる場面の、やや悲劇を予感しつつ、これがまた普通に感動的な地点へ落ち着く。ただ岩を持ち上げて下すだけ。そしてラストは岩を投げるだけ。このロングで見たら単純なことに対し、映像は少年に対して寄ってみせたことで、特殊な時間と光の輝きと、そして岩が投げられるエネルギーを作り出す。キャリアを通して、そんなエネルギーがそこかしこに溢れ出ようとしているのではないか。車窓から姉を見送る場面の、わずかな時間をなかなか列車から離れず姉に対し並走する弟の姿は(ここにもまた「ふたりの孤独なランナー」を見ることができるかもしれない)過剰に劇的ではないのに、忘れがたい力を放っていて、ただただグッとくる。

『STALKERS』(古澤健)

古澤健監督『STALKERS』。監督・主演と聞いて、古澤健監督がストーカーらしきことをやる自演映画かと失礼ながら思い込んでいた。
内容はほぼトンネルを行って戻りかけるだけ。ある意味でベケット的か。そもそも随分長いこと古澤監督の映画を見なかったから、以前の丸裸になるスタイルとは別物で驚いた。脚本作『ゾンからのメッセージ』に続きタルコフスキーから引いてきた題で(タイトルの複数形から何となく「オチ」を予想はできてしまったし、それ以降のゾッとする時間をもっと長く見たかった気もする)、トンネルにもそれらしい湿り気がある。またはマイケル・スノウ×呪いのビデオ的なパフォーマンス映画? あの十字は西山洋市監督『INAZUMA 稲妻』を思い出す(ところで見逃したままの西山監督『ネオ✝ハムレット』のタイトルにも十字架がついている)。
登場人物全員不審者。通りすがりのマスクしてる人たちと、カメラを回してフレーミングを定めては自分自身も撮られている男のどっちが怪しいのかという緊張感。またはコロナ禍など終わったと曖昧に切り捨て続ける国政に対して、まだまだリモート映画的なほぼソロ活動に近い映画をやるのは一種の抵抗と受け取れる。

『カラオケ行こ!』など

そういや山下敦弘監督の映画を何年も見てないと思い『カラオケ行こ!』。
一昨年なら『はい、泳げません』とか、カラオケ教室的な映画は何だかんだ気軽に見やすいし、実は監督の名前とか気にしないで向き合えるジャンルかもしれない。
でも『カラオケ行こ!』は「自分の声を聞いてください」以上の教えは特に無かったように記憶している。そしてやはり山下監督のリズムがあるのはわかるが、個人的にその掛け合いにテンポはあっても、ゆっくり過ぎて、具体性の曖昧さも含めて苦手ではある。ビデオデッキのくだりも、ちょっと悪い意味で(ミシェル・ゴンドリーと言いますか)エモいモチーフになってないかと、そうした映研の記憶は好きではない(ただ最後まで実にうまく組み込まれてはいる)。
だが知らぬ間に臭みは消えて、去年なら『マジックマイク ラストダンス』ばりに、あの綾野剛を主役目線で撮ったフラッシュバックが入るあたりで激しく心動かされた。
そして甘利君が言う通りセンチュリー横切るカットから北野武の柳島克己をバリバリ意識しての撮り方の冒頭からスクリーンがまるで(ラングじゃないけど)蛇を見てるようなうねり方を無意味にカラオケの廊下でやってくれるが、しかし合唱部とヤクザが等しく集団として撮られる展開が涙なしに見れないクライマックスの並行モンタージュに、そして男たちの黙って聞く姿に繋がる。カラオケは歌う側も大事だが(ついに歌う彼の枯れた声がカウリスマキの年齢不詳オヤジと比べても素晴らしい!)、観客は声を出せないのだから、ああした聞く側の演出はやはり大事なのだ。
正直ラストの綾野剛のくだりはあれでいいのか物足りなくはあるが、こうして山下敦弘の微妙に重々しい調子が気にならなくて見れる映画でよかった。

 

ウディ・アレンサン・セバスチャンへ、ようこそ』。
これが引退作というか、ストラーロと組んで以降はどれが遺作でもいいかという黄昏感が強まる(そう考えると『レイニーデイズ〜』は例外的な良さがある気もする)。
どうでもいい映画でゴダール役やったルイ・ガレルが、今度は「フィリップ」の名でガレルと似ても似つかぬ題材の監督役。よく引き受けるな(さすがにカリエールのことは意識しているに違いない)。足舐め芝居も見れる。
老人の映画らしくキレは落ちてもイスラエルのネタは相変わらずどころか「映画で中東とイスラエルの和平を目指す」「SF映画か?」「次回作は国連で上映するつもりだ」など世の中への嫌がらせ同然の台詞の厄介さは状況と相まってヒートアップ。ラストが『欲望のあいまいな対象』か『永遠の語らい』になって全員爆死も期待したが、そうした過激さがないのが持ち味ともわかってる。
また「功労賞」ネタはじめ、「わしゃ勲章なんか要らん!」と言わんばかりの、どうとでもなれ感が、笑うに笑えないを通り越して笑った。
ヒロインはやはり良い。
クリストフ・ヴァルツの意外と気さくな死神がフェードアウトしていくクライマックスになんやかんやジンワリくる。

 

ジェシー・アイゼンバーグ監督『僕らの世界が交わるまで』原題のほうが当然作品にふさわしい。
文化盗用と搾取について共感性羞恥ってやつを覚えながら見る映画としておすすめではある。思わずよせばいいのに!言わんこっちゃない!とスクリーンの彼に向けて叫びたくなる。いや、何もしていない自分よりは立派なんだろうが……。
最初の人前でのライブ後の反応を省略したのはうまいような。
あと10分くらい伸ばして、シェルターでライブやるラストとかあったほうがいいんじゃないか。日本映画にしても若手の作品はオチを切り返しで何となくわかりあった風にしてしまいがちに見えるので、ラストを初めてのライブ配信映像にしたのも、あまりスッキリはせず。

「グランド・ツアー イタリア紀行・短篇集」「ヴィットリオ・デ・セータ短編集」

国アカにて「グランド・ツアー イタリア紀行・短篇集」ジャン・ルカ・ファリネッリが解説しながらの上映。
どれもパンのし甲斐がありそうな光景。正直もっとちゃんとメモとって覚えておけばよかったくらい詳細を言えず残念だが、どれも面白く、どれも見ごたえあり。
とにかくポレンタがデカい。ポレンタ食べたことないが、それ以上に画面手前で貪り食う人達の迫力が芝居がかっているが凄い(『最後の晩餐』でもこんな光景はない)。ここに出てくるチョコレート工場の手作業とベルトコンベアの調和はもう『チャーリーとチョコレート工場』では見られるわけがないし仕方ない。キャラメル工場はボクシングジムのようだ。メッシーナ地震後の復興、パンだか物資だかを港でパスしていくロングの放物線に見惚れる。
飛行機ショーの記録は、飛行機自体は後で編集で空に重ねたヘンテコな光景で拍子抜けだが、その前の長いワンカットで恐ろしく賑わった群集を車上から撮った長回しの移動ショット(これが「長回し」という言葉が相応しい長さ)、そのほぼ全員イタリア製麦わら帽子を被ってカメラを見て笑顔という光景の迫力。この活気は日本の誰も彼も俯いてカメラに目を逸らす光景はもちろん、現在のあらゆる映像が蔓延る中から再び見つけることは想像できない力がある。
1909年の子供たちのモデルコンテストは鼻ほじっている子の不敵な感じもツボだが、ワンフレームごとに子供一人一人のモチベーションの違いが面白い。映画誕生の年に生まれた子供たちという解説より、もう少し幼い気がしなくもないが、ともかくこの子たちが物心つく段階で「映像としてカメラに撮られる」ということに対する意識をどのように目覚めさせているか(もしくはわからずにいるか)が興味深い点で、解説通り「第一世代」と呼べるんだろうか(その先にはウォーホルのスーパースターたちがいる?)。大人顔負けに妙にカメラにポーズを向ける子が実に末恐ろしいのだが、もっと素朴に言われるがまま立ったり花をカメラに向けたりする子には動物的な魅力もある。

 

国アカにてヴィットリオ・デ・セータ短編集。
今回の素晴らしい特集が年末年始の休みの反動で仕事により見逃した作品多く、年明けから悔しい。
既に話題だから見る人は放っといても見るだろう映画にわざわざ言うこともないはずだが、これを大きなスクリーンで見るデジタル修復版の凄まじい豪華さ。夜明けの焼けていく空模様、波模様、通り過ぎていく人影、あらゆる事象が光と影と彩りとなっていくのを見ながら、ただただ恍惚。
10分×10本。全部傑作。さすがに一気に見てしまうのは勿体ないんじゃないか。正直どれがどの映画か既に記憶あやふやだが、このほとんどが「一日」を扱っている。ほぼ10日間。10分近くがいつの間にか日が暮れて宵闇に沈み、エンドマークが出る。あっけない。しかしまたしてもジョージ・ルーカス財団の名が出るクレジット入って次の映画が始まる。再びデ・セータの映画が始まる。早起きして準備して、昼寝して待って、時が来たら全力で動く。または坂道を走り抜ける祭り。時にマシンでもない、獣でもないのに、なにか機関車が走り抜けるかのような音として捉えられる風の音、活火山の響き、麦の収穫。そうした音のサイクルと運動。画面に映る人々に対して、こちらはあまりに椅子に座って超贅沢な鑑賞。観客は罪深い。
それでいて内容は能登半島震災のことがしばしば無視できずよぎる。やはり観客は罪深い。
『メカジキの時機』は何を言ってるか意味不明だがグリアスンを通り越してキン・フーみたいな激しさでメカジキを追う! 『火の島々』の終始不穏な呻きのように響き続ける活火山(血のごとく滴る溶岩)。『硫黄の山』の真っ暗闇に響く歌声からの急転直下の展開(黙祷)。『シチリアの復活祭』の雨嵐を呼びかねない野外劇は天候を操りそうで、しかし自然の動きは人には操れない(ヴィスコンティと同じく彼もまた貴族階級出身らしいが、これから8年後のオリヴェイラ『春の劇』のことはやはり連想しやすく、そこではさらに無視できない帝国による災厄が雨霰と降り注ぐ)。諸々飛ばして、この見覚えある題名の『忘れ去られた人々』が最も一連の作品では政治的な意味合いを持つかもしれない(デ・セータの短編は映画館での本編前に上映されていたらしいが、どの作品もこうしたドキュメンタリーの枠では例外的に、政府の意向に沿わない題材だからか、資金援助を得られず、経済的には厳しい状況で作り続けたという)。初めて冒頭からトラックが現れて走り抜けていく一連の繋ぎを経て、モノローグが響き、この土地が開発中の工事の失敗により電力や交通から切り離されたままである旨が告げられるも、むしろ続く画面は暗い部屋でも輝く美しい金髪の娘。どこも危険な祭が好きねとハラハラする丸太登りに興奮。あくまで切り離されようが暗さを抱えつつエネルギーに満ちている。

【告知】2/11、12 當間大輔監督『self and others』上映会

たびたびお世話になっています、聖蹟桜ヶ丘のキノコヤにて上映会を新谷和輝さんと企画しましたので、ご案内いたします。
メインビジュアルは當間大輔監督に作成いただきました(こちらの不手際によりPeatixにはフルで載せられず、監督には大変な失礼をしました……)。

https://0211kinokoya.peatix.com/

(2月11日予約ページ)

https://0212kinokoya.peatix.com/

(12日予約ページ)

以下、上映の詳細をPeatixより転載します。

 

 
當間大輔監督『self and others』上映会
 
会場:キノコヤ
2月11日 18時上映(17時30分開場)
12日 14時上映(13時30分開場)
各回上映後に當間大輔監督と、本上映会企画の中山洋孝、新谷和輝によるトーク(30分ほど)を予定しております。
料金 1000円(ドリンクなど別料金)
予約 Peatixまたはメール kinokoya96@gmail.com までお名前、予約の人数、ご希望の日時をお送りください。
 
 
上映作品紹介
self and others』(2023年/53分)
人に心を閉ざしているナツはショウには心を開いていた。彼が東京へ出てから数年後、彼女は東京の喫茶店で働いていた。ある日、ナツは地べたに横たわるショウを見つける。
監督・脚本・撮影・編集:當間大輔
出演:上野凱 木越明 大迫茂生 笠島智 原妃とみ 山下ケイジ 青山卓矢
助監督:福島俊輔 齋藤成郎 甲斐菜摘 永澤由斗
録音:渋谷太 制作:當間桜子
 
 
 
この作品では、個人と他者という社会構成の最小単位と部屋という最小限の空間に絞ることで、人間の本質を描くことが出来たのではないかと思っています。
また、出演いただいた役者の皆さまが本当に素晴らしく、フィクションのはずなのに、ある現実で生きる人々のリアルな感情や表情と向き合える映画だと思います。
(當間大輔 本作監督)
 
 
 
self and others』という題の映画といえば、佐藤真監督による写真家・牛腸茂雄のドキュメンタリー『SELF AND OTHERS』を当然連想させる(53分と上映時間まで同じだ)。それとも牛腸茂雄の写真集『SELF AND OTHERS』という題の元と言われる『自己と他者』のR・D・レイン(そもそも写真集の末尾にはレインの『経験の政治学』から引用された、アーヴィング・ゴッフマンの言葉が記されている)まで遡るべきか。国立国際美術館の「SELF AND OTHERS 牛腸茂雄写真展」から始まる『寝ても覚めても』(監督:濱口竜介)という題も、『self and others』の男女を見ながら思い浮かぶ言葉かもしれない。
自己と他者。映画は冒頭から物語に多くは関わらない他者の声を聞かせる。彼らは何だったのか? ナツより先に東京へ出たショウの耳には、それ以上の無数の他者の声が入ってくる。それがショウをあのようにさせたのか? 映画そのものは最終的に男女の変化を視認できるレベルへ観客を誘うようにシンプルさへ向かっていく。そのために選択されただろう白黒の画面により明暗の変化が際立ち、特に東京での二人の再会する瞬間、明るい出口の一歩手前から闇の側へ引き戻すようなショットの繋ぎは、外界から隔てられた二人だけの世界の作られる時に観客も立ち会わせる。
ナツとショウが何を思ったか以上に、その瞼がシャンプーやシャワーによって閉じる反応はわかる。役者の自由を奪いかねない動きの失われていく事態でも、たとえば上野凱の(状況に反して)よろこびさえ感じていそうな顔、または無言の頷きといったリアクションの一つ一つが見逃せない。映画を見ながら沈黙を余儀なくされる観客にとって、声のない二人との関係は一切他人事ではなくなるのだ。
(本上映会企画 中山洋孝)
 
 
 
フレーム内に人がよく出入りする活動的な冒頭が過ぎると、ショウとナツは動けなくなっていく。コロナ禍でも人で溢れかえる東京の喧騒が彼らをそうさせたのだろうか。私には感じ取れないざわめきが彼らを蝕んだのだろうか。いろいろと想像はできるが、二人がそうなった原因は示されない。地面に臥して声も出せなくなったショウをナツは世話してやるが、やがて突然、再びナツも同じように動けなくなる。ケアするものとされるもの、健常な身体と病んだ身体。それらの境目がつねに揺らいでいる。この映画がずっと映すのは、立ちすくみ、寝そべるギリギリの身体であり、その身体を何らかの外的な要因に還元することはしない。自分の身体さえも思い通りに動かないのに、他人の身体をどう支えればよいのか。そうした根本的な共同性が問題になっているのだと思う。だから、ショウとナツの間でほぐされる髪、投げかけられる視線、微かに緩む頬、差し出される手、そういった細やかな部分の重なりが印象に残る。私やあなたや世界が次の瞬間にどうなっているかは全くわからないけれど、このように生きていくしかないという静かな決意がここにはある。
(本上映会企画 新谷和輝)

1/4『VORTEX』

ギャスパー・ノエ『VORTEX』。
一部好評のため食わず嫌いのギャスパー・ノエをついに見る。
これまたエラいモンを見てしまったという感想に尽きる。ドライヤー『吸血鬼』もやってるし。
シュリンゲンズィーフなら『ボトロップの120日』を見たときの、映画から映画じゃない側へ下降していく様(それは本作のテーマでもある)を見ることに価値があるような、これはもはや映画じゃないと言われても構わないところが忘れがたい。無数の映画と死の結びつきにヴェキアリの『女たち、女たち』を連想できるかもしれないが、それ以上になんともいたたまれない。
別に画面分割が映画的じゃないというより(ウォーホルとかあげるまでもなくロイス・ウェバーとか、近年なら『発見の年』という最重要作に比べれば『VORTEX』はそこまででもなく、何よりアルジェントと同い年のデ・パルマかよとツッコミたくなるハラハラもしばしば)、それ以上にまだ若いフランソワーズ・ルブランとアルジェントの夫婦写真(たぶん合成?)が驚きだが、手法の面ならカットする度の黒画面がこちらの調子を狂わせるのは間違いない。ショット同士の繋がりが宙吊りになり、バラバラになりかねない感覚がスライドショーに至る。
正直その前情報から想像した以上に他人事じゃなく、露悪的とも言い切れない(ただラストのドローン?はよくわからないし、遺影はさすがに悪趣味の側に行ってないか……死んだあとに画面が白くなるのもいかがなものか)。
徹子の部屋』にて入れ歯が合ってなさそうな岡田茉莉子を見た時のいたたまれない感覚に近いと言っていいのか危ういが(しかしフランソワーズ・ルブランから真っ先に思い出した)、晩年の大島渚小山明子から介護されているという印象とともに、映画人にとっても老いは避けられないことだろうが、本作の映画と夢の繋がりは「悪夢」というより、差し迫る現実なのか。汚いフランスの水回りという点でノエはユスターシュらの伝統を継ぐのか(主演女優だけでなく『ナンバー・ゼロ』のことは思いの外よぎる)。または吉田喜重人間の約束』の、老いの狂気を描くことも一種の伝統かもしれないが、向こうから容赦なくやってくる目を背けたいものをあえて扱う感覚。