マルコ・ベロッキオシチリアーノ 裏切りの美学』。まさかのコロラド州。フィルモグラフィの大半を追えてない、氷山の一角しか見れていないけれど(『狂人の解放』を自宅で見る集中力もなく)。それでも『夜よ、こんにちは』から前後行ったり来たり遡り見始めた要素は当然今回もぶち込まれている。囚人、牢獄、テレビ、実話、狂人、痙攣、精神病院、夢想、法螺話、芝居がかった人々、夜、家族、祝宴、監視、フラッシュ、ヘリコプター、裁判、一人の時間、更衣室、対決、野次、獣、幽霊、権力の腐敗、セックス、下着、全裸、スポーツ、海、花火などなど。しばらく見れていないジョニー・トーのクライマックスみたいな銃撃戦がプロローグの後にカウントと共に『仁義なき戦い』『アウトレイジ』よろしく飄々と挟まれる。なんという余裕。そこに僕は全然知らないマカロニアクション映画や、ベッケルやメルヴィルなど先行のギャング映画たちどころか(しかしどこかそれらに近いおかしみ、悲しみ、寂しさはある)、今更コッポラやデ・パルマなど意識してるかなんて関係ない(どちらもたったの一歳違いとさっき知った)。フライト中の夢想からさらに本領発揮して、いつまでも見ていたい裁判シーンへ。終盤にはどことなくロバート・アルドリッチ似の弁護士が出てきて(ベルトルッチのことや監視カメラの俯瞰ショットなどあるが)、寄ったり、引いたり、盛り上がらなそうな展開を淡々と引き込ませる。裁判以降のどんな友情らしきもの、家族愛らしきものよりも、牢屋によって隔たてられた、かつての仲間の放つ歌が強烈なのは『勝利を』の反転かもしれない。なんとなく『アメリカンスナイパー』や『運び屋』と似てしまいそうで、それも安易すぎてイーストウッドの名前は出したくないが(刑務所や罪というものへの意識が全然違うのだろう)。そして相変わらず夢オチともいえないラスト。どうしてあんな結末が、これ以外ありえないほど感動的なのか。