『春画先生』

金曜夜のイチャイチャしてる新宿にて塩田明彦監督の問題作『春画先生』を見る。
直前に見た小森はるか『ラジオ下神白』が霞みかねない勢いで困った。とはいえ『春画先生』の地震も、やはり東北震災から10年以上経った描写だなと思う(8年前の春画展の充実した図録も勿論出てくる)。『明日』と題された311をテーマにした短編集の一本を手掛けた際は小田豊さんへの喪として作られていたが、本作には喪の儀式めいた映画を作り続けた井川耕一郎の『色道四十八手 たからぶね』(この映画もまた亡くなった渡辺護のための企画を脚本の井川耕一郎が引き継いだ)が頭をよぎる。もしくは小沼勝、または柄本佑を通して石井隆にも捧げられているのか。
自らを北斎でも歌麿呂でもないと語る春画先生同様に、いま名前をあげた、どの監督とも異なる(宮崎駿大林宣彦に連なる?)変態作家らしく、諸々の現在必要なツッコミを受けるだろう紛うことなきセクハラ映画だが、もはやありえなさすぎて天晴の領域に達している。序盤に結合部を文鎮にて隠した画を十秒近く黙って見せ続けただけでも大したものかもしれない。肝心の春画先生を演じた役者に、たとえば来月アテネ・フランセにて10年以上ぶりに上映される(ポルトガル映画祭なら2010年…ちなみに『ラジオ下神白』ではポルトガル語の「愛してる」が聞こえてきた)ジョアン・セーザル・モンテイロのような変態による身のこなしの美しさが足りないとか(モンテイロ上映後のクリス・フジワラとのトーク相手になったのも納得)、無いものねだりをする必要があるかもしれないし、霧の中に立つ安達祐実司葉子くらい美しくなければいけないとか、その種の文句はいくらでもあるかもしれない。それでもこの至らなさを承知の上で、図式でもって乗り越えようとする(それこそ人が言うように増村保造か)。
塩田明彦が原作・脚本を兼ねるだけでなく、脚本助手に『ダークシステム』の幸修司もクレジットされているのが感動的な下らなさに拍車をかけているのか。序盤の講義から春画先生は伊丹十三教授を嫌でも思い出させる風貌で、はずかしゼミナールを繰り広げる(近作なら『偶然と想像』の渋川清彦と比べられるか)。変態作家から変態家族の先輩監督へのリスペクトと思われるところもある。主演女優賞間違いなし、とかいうのも「身体を張った」演技を過度に称える振る舞いとしてアウトかもしれないが、それでも実質主演の北香那は本当に全力で塩田明彦の映画というか、初っ端のベッドに飛んで天井見上げて興奮とか、よくこんな映画でしかないことをやってくれたと思う。なんとなく、あえて脱ぐことなくベッドシーン自体はなく想像させる映画かと思いきや、まるで安達祐実のボディダブルのように「濡れ場」になる(柄本佑のパンツはヤバい)。
その後の柄本佑春画先生によるプレイは怒られそうだなとか、なんだかお腹いっぱい過ぎてついていけないというか疲れてくるが、それでもスマホの使いように笑けてくるし(そして最後の通話がいい)、最も激しいプレイは声だけに留めるという狙いもドヤ顔想像しつつ、さすがというか。唐突な時代劇コスというか、鎧プレイというか、由緒正しいピンク映画の体位から目覚めてシーツ一枚あたふたという繫ぎもおかしい。そして個人的にはライバルとして弱いと思った安達祐実も、クライマックスで春画先生同様に変態作家の計算通りなのか、もうどうにでもなれと感動してしまう。すべてが半端で嘘くさいと怒りを買うかもしれないが、文字通り震えるほどの名場面というか、あの体位から、あの突き立てた指、あの一言に不覚にも涙してしまう。少なくとも『カナリア』以来のベストじゃないか。白川和子の佇まいは、なんというか観れてよかった。