ビー・ガンの場合『凱里ブルース』は長回しが才能の証明なんだかもよくわからない方向へ舵を切って終わるところに驚き、『ロングデイズ・ジャーニー』後半の3Dは慣れてくると何も驚かずボンヤリ見れてしまうのだが、いずれにしても、得体の知れないところがある。間違いなくビー・ガンという作家の映画なんだろうけれど、そこには演出する自分よりも撮れた映像の方が凄いものとして扱われることへの意識が少なくともある気はする。そんな作家より作品の方が興味を集めるのは当たり前の話で『春江水暖』の水泳シーンなんかその典型なんだろう。二年位前に自分より年下の映画ばかり見ていた時に、何の蓄積があるのかよくわからない感じに惹かれるところはあった(それが自分自身に跳ね返ってくる点も含めて見ていた)。『春江水暖』に「先人たち」長回しの作家の映画を蓄積しているとは一切思わず、「継いだ」という印象もなく、自分が撮って自慢してしまいそうなものを見ている気がした。そりゃ「先人たち」を見ているから、あのように撮ったんだろうし、あのように語ったのであって、「渦」という台詞が書かれて「どうしても戻ってきてしまう」というニュアンスは捉えたに違いない。ここには「山水画」からくるという構図が既にあって、その川の移動撮影は、何度でも同じような構図が、たまたま入り込むものによって多少の変化をつけなが偶然性も手に入れられるという程度でしかない。ライトアップの瞬間も狙いすましたようでしかない。「先人たち」の映画に聞こえてきた歌はなく、ここには何も響いてこない。その空虚さを諦念や悟りと捉えて面白がる人もいるかもしれないが、それでもビー・ガンにあるだろう現状への自覚から来る変化球にはならない。