年末年始の映画日記

と言うほど大して書ける感想も思い浮かばない。

映画納めは『トポロジー・オブ・セイレーン』、映画初めは『ドイツ零年』と『新ドイツ零年』だった。

国アカでは佐分利信『慟哭』。今まで見てなくてごめんなさい!というか恥ずかしい佐分利信監督作(録画した『悪徳』は見ていて、たしかに面白かったが)。名画座によくいそうな方達が話題にしてる(偏見だが)映画を後回しにする悪い癖がある。佐分利信がイメージする舞台上で旦那役を背に木暮実千代から阿部寿美子へ早変わりするカットに驚く。一方で冒頭の妻の死を繰り返すような、横になった阿部寿美子を見てからの、雨宿りをやめてずぶ濡れになる佐分利信。それを見送る場面はじめ木暮実千代は美しい。その美しさとは異なる阿部寿美子が「声」のみの仕事を求められる役というのも興味深い。

コゴナダ『ビューティフル・ジャーニー』は通勤圏内にあるイオンシネマで見た。モールを歩んだ先にある劇場のスクリーンは一部話題になった通り薄暗く、施設内の華やかさに反して場末の映画館に迷い込んだ錯覚を抱かせる。映画自体も人生の岐路で見た夢のようなアメリカ映画らしさというか、今更だが『ラ・ラ・ランド』より余程ドーネンやミネリのMGM映画に学んでるというか。また久石譲の音楽映画とは知らず驚く……たしかに宮崎駿やら新海誠やら引き合いに出されそうだが、それよりも今年見たゼメキス、コッポラ、ウェス(あるいはカラックス)の新作とテーマの上で通じつつ「普通の映画」としてやろうとしてることが凄いかもしれない。ただコゴナダなんて名前の監督の映画を良いというのは恥ずかしいと警戒して素直に受け入れられない。またはあまりに綺麗過ぎるというか(イメフォ系よりアメリカのミヤケショウみたいな?)、時代錯誤と言えない佇まいに「美しい、アメリカ映画」という印象がある。

荒井晴彦『星と月は天の穴』も見た。特に言うことも思い浮かばずぼんやり見てしまう(おそろしい)。タイトルにちなんだ仮面が『月世界旅行』みたいな微妙に正統派(いかにも過ぎる?)あたり不意をつかれる。ヒロイン二人が弱いのだが(『春画先生』と通じるか)奥村昭夫の映画で見たような劇団周りを狂わす美女くらいな存在としたら説得力あるかもしれない。田中麗奈のこいでいたブランコはグッときた。喫煙医者のくだりもよかったか。竹中直人の映画みたいか。

オムネスフィルムズ特集も一通り見る。

『さよならはスローボールで』と『ハム・オン・ライ』は良かったし、他も悪くないけれど体感時間は長い。自分が映画のどのあたりにいるかわからず疲れる。そして眠気に襲われたり、眠くなければ延々終わらぬ事態で集中力を失い見る気をなくす。またしばしば後半に時空が歪んだような事態を起こすが、意外性ではなく、こうでもしないと変化は期待できないと見える。そして、それでも映画に進展などないとわかってやってる。

コッポラ、アルトマンら70年代で終わらずキャリアを継続させた映画作家と、80〜90年代に多くを追うような技術的な安定、リンチ、コーエン、タランティーノ、PTAらの夢オチや群像劇スタイルから不意打ち的な要素を枯れさせたような退屈さ、ハーモニー・コリン以降のますます自分も詳しくないアメリカ映画。

日本のケイズシネマやポレポレ東中野でやるような映画作家たちもディレカンじゃないけどユニットを組めばいいのではと思う。オムネスフィルムズの面々に微妙な違いはあるだろうが、これなら監督が入れ替わっても辿り着く先は同じように見えるし、日本の映画作家も誰とは言わないが、見終わる頃には同じような景色に感じる人達がいる。アメリカ映画は透明さで先を行ってるかもしれない。ただこれからも見ようとは思いつつ、この調子では単に似たり寄ったりで見る必要を感じなくなりそうではある。ただ「夢」を扱いながら「個」としての作家性から解かれようとする姿勢は、ただ一人が作家として延命するだけでは済まそうとしない、そこに切実さを感じる。特に『ハム・オン・ライ』前半部やカーソン・ランドの撮影・編集の技は日本映画に期待できない気がする。