『トレンケ・ラウケン』(ラウラ・シタレラ)

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ありがたいことに『トレンケ・ラウケン』を一足先に自宅で見ることができた。
4時間以上とはいっても二部構成、全12章と見やすい。しかし厄介に違いない。ラテンアメリカ文学を図書館で借りてきて、その意外な展開で非常に面白く読んだはずなのに苦手意識が拭えない、あの複数の固有名詞と、描写を頭に思い浮かべるのに負けそうになる感覚を思い出す。
参照元の一つに『妖怪巨大女』(ネイサン・ジュラン)があげられているのも興味深く、今年2月に国立映画アーカイブにて『ムービー・オージー』(ジョー・ダンテ、ジョン・デイヴィソン)を見逃した悔しさもこみ上げてくるが、このあたりの描写が発揮されるのは第二部からだ。おそらく第一部にてレディ・ゴディバ(ゴダイヴァ夫人)、アレクサンドラ・コロンタイといった名前から浮かび上がる作品の全体像を、二部構成と渡っていくうちに意図的に見失わせる。いや、むしろ見失う側と、見失わない側へ振り分けられたのかもしれない。見やすさが見失うこととセットになる。
第一章はラウラという女を追う二人の男から始まる。職場の同僚エセキエルと、恋人のラファエル(俳優と役名のファーストネームが一致)。この「物資の運搬」の仕事を一緒にしているというエセキエルの顔を見ていると、同行者・運転手の佇まいなのか、何を考えているのか掴みにくい。その顔こそ映画を見ている自分と最も近しく見えるのに、この顔が実際に何を考えているかは読めない。要するに「心ここに非ず」に見える。ピーピング・トムと盲目というテーマと、何かを見ているに違いないが何も見ていないかもしれない顔というのも結び付けられるのか。
もう一方で音の存在は「円形の泉」を指すらしい「トレンケ・ラウケン」周辺の鳥たちの声も印象深いが、時制を遡った第二章にてエセキエルはラジオを聞きながら運転してきた顔として出てくる。この車にラジオの収録を終えたラウラが乗り込んでくるが、カットが変わると、サイドミラーに何か考えているのか、そうでもないのかわからないラウラが映っている。こうした意識から切り離されて映る顔と、一方で運転しながらラジオを聞いてきた、独特の聞いていなさそうで聞いている、そんなエセキエルとの会話がカフェで食事しながら続く。食事の合間に風景を眺める顔を挟みつつ、あくまで引いた二人を捉えるのではなく、彼と彼女の切り返しを用いることで、映画を見る側と男女の間の体感時間がずれていくように感じる。
エセキエルはラファエルの知らない秘密を知っている男の顔でもあり、鳥の鳴き声か何かを聞いている顔でもあり、「官能小説を書ける」と言われるような想像と妄想をする顔でもあり、脳内で似合ってるのかわからない別人を演じる顔でもあり、目玉焼きを作る場面を挟みながら謎を探る男でもあり、歌を聞きながら口ずさんでしまう顔でもあり、そうした意識と無意識の境を行き来するような佇まいが、少なくとも第一部を貫いている。
その佇まいを、プレゼントの包装をしながら(「ながら」の多い映画だ)ラウラが失踪した後の出来事を語る女に引きずられるように、ラファエルも変化していく。その変化は街並みをドライブしながらSF的な展開へ向かう入口を、声と映像のデュラスのパロディのような重なりがきっかけとなってこじ開けたように感じる。そこには登場人物たちも研究に必要な金がないが、映画も金がなく、しかし低予算を強いられることが想像と探求と切り離せない。ただただ走る「道」の光景も金がないだけでなく『トレンケ・ラウケン』を語る上で外せないものに見えるだけでも、そこに想像力が発揮されている。限られた人物しか特定し記憶に残らないのに、見えない、または通りすがりの複数の人間の記憶へ広がっていく醍醐味があり、そこに作中の手紙の読者と、映画の観客が重なりもすれば、また喫茶店でのラウラの会話が鏡を背にして繰り返されるのも(『アウト・ワン』で見覚えのある構図だ)、ウエイターが食事を運んでくる時を切らないのも、無関係ではないはずだ。
また不倫、同性愛、妊娠という愛をめぐる三つの有り様が第一部の折り返し地点(本作全体の四分の一)あたりで展開されて、一気に語りのギアが上がる。カメラが妊婦の腹へティルトダウン・アップし、彼女の背後に牛たちが増えてきて、草原と海、肉体と自然、夕暮れ時、オーバーラップするエセキエルの顔とイメージが重なって、その語りがラウラの失踪以前の出来事であって、それが彼女の行き先に対する答えになるか断定できないがゆえに、どこへ向かうかわからない力が発揮される。しかしこのシーンの孕む力はエセキエルの空想の拠り所に過ぎないかもしれない。あえて第二部において、誰か見ているはずなのに観客には見せない存在(血の繋がらない子供のような)が潜み続けるようになって(ラウラの語りの絶妙なタイミングでボカすためのピント送りが憎らしい)、やがて最初にエセキエルの内面がわからなかったように、ラウラの行く先を見失っていく。
ここまで勢いで書いてみたが、それは『トレンケ・ラウケン』の絶妙に全体像を捉えにくい(と同時に捉えられそうな)四時間の向き合い方と正しいかわからないので、改めて映画館で見直す必要を強く感じる。