『ジ・アザー・ウェイ・アラウンド』(ホナス・トルエバ)

確信犯的なクドさが面白い。90分あたりで収まりそうなところを踏み外しつつ、2時間いきそうなところで切り上げる。通常より長すぎると感じさせる勇気がある 。

離婚の理由も曖昧どころか、いっそ無いのだろう。不倫相手になりそうな人も特に関係してこない。そして周りは何となく「いずれよりを戻す」という。夢や入れ子構造のあたり脂が乗ってた頃のウディ・アレンも意識しているだろうが(見落としたが主役のデスクトップ上に小ネタが多数盛り込まれているらしい)、どこかソーントン・ワイルダーの戯曲じゃないが、具体的なのに抽象性を増している。

また夫婦生活が撮影中の映画内映画かもしれないという、非常に説明困難でどちらともとれる構造だが、これがホン・サンスの夢想やスピリチュアルの方へ向かうのを、あえて踏みとどまらせる。説明しにくさが観念にならない。

そうした仕掛けの力か、現実のトルエバ自身と関係ありそうなキャスティングゆえの距離の近さがあるのに、ある作家個人の人生観の反映としての面白さではなく、むしろより普遍的に時と場所、そして語りの落としどころに収まらない領域へ突き抜けようという野心がある。それゆえの「反復」のクドさが、ツッコミたくなるおかしみでありながら、デビッド・ロウリーの『さらば愛しのギャングスター』あたりに近い新しさかもしれない。循環型か直線型かどちらか問われたら、これは果てしなくジャンプしていくのか。

『8月のエバ』と同じく、窓の外から音声や光が入って、そこに書籍やポスターの情報も含んで、一つのカットの豊かさを膨らませるから、見ていて非常に楽しい。そのスケール感がロメールウディ・アレンホン・サンスら風俗喜劇の作家と一線を画す。オタク趣味に陥りそうで、映画や哲学書からの導入も、ただ消費に終わらせない人生の有り様を模索する。人生≒映画であり、その二車線は窓の内と外、ポスターの内と外が等価に豊かであるような広がりと奥行きを獲得する。

で、結局最後二人がどうなったのかよくわからないが、自分の周りのカップルも傍から見るとそんなものだ。結果などともかく秘め事をパーティーとして祝うという幸せと思えば、堪らなく楽しいじゃないか。