『草の葉』(ホン・サンス)

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フィルメックスに間に合いホン・サンス『草の葉』だけとりあえず。終盤のキム・ミニによるモノローグを聞くと、このカフェにいて盗み聞き(見)た人々の会話の数々が、わりと本気でプルーストの社交生活への視線と通じるんじゃないかと思った(まともに読んでないくせにかっこつけたいだけだが)。またはベルンハルトの、たとえば『私がもらった文学賞』や、クリスチャン・ルパ演出の舞台になった『伐採』のディスっているレベルの辛辣さをもって描写される作家たちが段落の変わった途端に愛すべき(ということでいい?)記憶と化すのに近いんだろうか。カフェの裏側でコスプレして記念とも言い難い撮影を繰り返すカップル、そもそもそんな背景の壁となるカフェ、何となく原宿のようだった。盗み聞きできるくらいの声の大きさ、アップルのノートパソコン、すべてが「スノッブ」なのかもしれない。しかし誰もいない静止画になってから、まるで貴族の時代の終わりでも語った映画のように、時間が一気に飛んだように感じる(それからの短い時間が感動的なんだけれど、とりあえず省く)。

まともにプルーストを読んでいないくせに、短いというだけでジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』は先に読んでしまった。『収容所のプルースト』にて語られる『失われた時を求めて』の描かれる、いくつもの「むなしさ」。自らの余命を知ってしまったスワンが、しかしそれを告白しようとした公爵とその夫人からは晩餐会の時間が迫っているのを理由に「ご冗談でしょう?」「大丈夫、元気そうだ」としか返せず、その場を夫妻は去ってしまうが、移動中に妻の靴が服の色と合わないことに気づけば、15分間遅刻してでも靴を替える方を選ぶ。「社交生活のむなしさ」。その「むなしさ」が社交生活とほど遠い収容所にて語られる。たかがブログだからこのくらいで安直に自分の中で結びつけてしまうけれど、ホン・サンスの映画が短編集のように編み込むやり取りも、いずれ誰かの死と近づく時に語られるかもしれない(Twitterの感想を読むとみんな本作と次作『川沿いのホテル』から強い死の匂いを嗅ぎ取っている)。

また訳者解説(岩津航)にて触れられる「収容所へ持って行く一冊を選ぶとしたら」という問いが喚起する「無人島に持って行く一冊」とは別種の胸騒ぎ。引用すると「あるいはその問い自体が無効になるかもしれない。政治的な理由で収容所送りになった場合、どんな本でも読めるわけではないからだ。さらに言えば、たった一冊の本さえ許されないかもしれない。ではどんな書物にも触れることができないとき、人は自分を支えてくれる言葉を失ってしまうのだろうか。そんなことはない。それまでに読んだ本の記憶のすべてが支えてくれるはずだ。問題は、その記憶をたどり、現在と結びつけ、あるいは現在と切り離しながら、収容所のなかで生きた言葉につくりかえていくことにある。」「プルーストの文学にはスノッブな匂いがつきまとう。定職に就くこともなく小説を書こうとして一生を過ごしたブルジョワ男性の物語であり、しかも社交界や恋愛が主題である。こんな小説を収容所で思い出したとしても、せいぜい安逸な日々へのノスタルジーをかきたてるだけではないか、と思われるかもしれない。しかしチャプスキの講義は、そのようなものではなかった。むしろ、社交界の華やかな話題に終始していると思われがちなプルーストが、実際には誰よりも冷静に、そして孤独に現実を直視していたことを思い出す機会となったのである。」

はたしてホン・サンスを収容所にいながら思い出せないかもしれない。ただ『草の葉』を見ながら、もっと個人的な事情からだとしても、誰かが映画を見ることができなくなり手放さざるを得なくなった時が来て、彼らの記憶に残るのはこれだといういくつかに思えた。食器の立てる音が仏様を呼び出してしまったような影の使い方から、ひどく美しく人々の横顔を捉えた瞬間の数々へ、ほとんどあざといくらい平然と変わる。バカバカしいくらい誰の耳にも聞き覚えのある、もはや「BGM」と呼ばれるしかなさそうな「クラシック」たちは、会話の声と曖昧にぶつかり、やがて窓の向こう側の様々な物音や、他所から聞こえてくる歌へ替わっていて、また飲みの席においてさらに聞き覚えのある曲になって帰ってきて、むしろ煽ってきてくるくらいだ。この場にキム・ミニの切り返される顔はちょっとやり過ぎなんじゃないかと思ったけれど、弟にいきなりキレるところがおかしくてどうでもよくなる。