ユーロスペースにてホン・サンス『水の中で』。ピンボケ映画。パンフ読んだら飯岡幸子さんの文が人生において避けられない視力低下の話から始まって、逆に視野が広がるような。あるいははっきりしない監督の言動に付き合ううちに「カット」の声を聞いたシーンで過去を思い出し羞恥に襲われる、といった文章にプルーストじゃないが、学生映画かわからないが精神は頼りない若者だった頃へ遡るような奥行きある映画だったのか、とさらに自分の解釈でもないくせにわかった気になる。そうなるとラストの自死を想起させる展開もホン・サンス自身の経験と重ね合わせやすくなり、さすがにそこまで想像するのは悪い意味で深読みでしかないと嫌になる。小学校高学年からは眼鏡を手放せない近視の自分でも現在の眼鏡は10年以上同じ度数を使用しているが、日々の生活での実感や健康診断の結果から乱視が入って、さらにピントが合いにくくなっている。赤外線カメラのコリン『アグロドリフト』、06年製携帯カメラのコベリゼ『枯れ葉』と同時代的ではと並べてみたくなる映画だったが、実際は似ていない。アルベルト・セラとまでは言わないが、映画撮影も恋愛もいつも以上にはっきりしない、「何を見せられてるんだ?」と言いたくなる(しかし準備体操からテコンドーはいい)時間が過ぎていく。ネットの汚い画質で見るサイレント映画のようなシンプルな構図と相まってセンス抜きには見れない良さも感じる。一方で幽霊の話が出てきて、監督が一人きりで目覚める時など、これまでの時間はホラー映画における無益な待ち時間みたいなものだったんじゃないかと緊張が走る。
その後にレオス・カラックス『ポンヌフの恋人』4K版もユーロスペースで結局見る。これまた視力低下と水中に飛び込むラスト、死の予感と、キノハウス入口に飾られた二人の肖像のように切り離せないことに驚く。同い年の作家による異なる時期に作られた、おそらく情熱の注ぎ方も真逆のスタンスだろう映画が、奇遇にも同じ劇場で同じ時に上映されている。収容所から一転して『ギターはもう聞こえない』の窪んだ闇のような片目が、眠りについているビノシュのアイパッチの裏にもあるようで、実際は閉じた瞼の見える序盤(その内側は見せない)、映画自体も片目を閉じるかのように位置がズレたような。チェリストの片目を撃った直後からの、夢から目覚めたのかも曖昧なまま空を突っ切るトリコロール、戦車、激しく揺れるイメージの連鎖、ワインのペットボトルと同じ大きさになった男女の笑い転げる俯瞰など自分ごときが今更発見したように言っても無意味だが、ジャン=イヴ・エスコフィエはボリス・カウフマンと同じく、かつて「神」だったと『イッツ・ノット・ミー』の延長で言ってみたくなる。フィックスだろうが揺れていようが全てに重さを感じられる。フレーム外に漏れ出るものが多いからこそ自分も失明するかのように見なくてはいけないとなる。少なくとも『ボーイ・ミーツ・ガール』と『ポンヌフの恋人』は映画館の客席で見ると、スクリーン、客席との水平線の揺れを眺めるような、また夜の海に身体を浸して座り込んだまま水上に浮かぶ光を見ているようだと、または自動車か電車で窓を眺めながら水底より低い地下から上がっていくと夜景が広がっていくようだとか、自分が「シネフィル」であるかのように錯覚して気障なことを言いたくなる。そして『ホーリー・モーターズ』にも引き継がれていく、誰とも知らない人物の主観から中心の男女までバトンを渡すような始まり(『自由の幻想』?)。それでも初めてVHSで見た時は、この映画がどうでもよかった。漠然と『ポーラX』に近く150分ほどの上映時間と思っていたら『汚れた血』とさほど変わらないのにも驚く。『メルド』『ホーリー・モーターズ』を挟んで『アネット』の前に自宅で見直して、その時にはすっかり受け入れるモードだった。なぜか若い時にはノレない。終盤のビノシュの両目からこぼれていく涙に素直に驚く。