『Flip-Up Tonic』監督:和久井 亮

pff.jp

9月9日(土)11:30~/9月15日(金)14:30~ 小ホール

Fプログラムにて上映。

 

ある大学の研究室が開発した人型ロボット「LEACHAR」(リーチャー)と数時間の行動を共にする被験者のアルバイトに学生のタラノは参加する。しかし同行していたリーチャーの「ジョー」と喫茶店にて食事をしようとした際に、コップを倒して自分の衣服が濡れてしまい、トイレで着替えをしている間にジョーは外へ去ってしまう。アンドロイドはどこへ消えたのか? 
上映時間25分という短さにもかかわらず五章立てという密度の作品であり、ここまで内容を記した第一章の学外パート以降、第二章にて消えたジョーの行方を追っているかと思いきや、タラノが研究室にて実験の説明を受けている段階へ時制を遡り、これ以降の舞台は研究室に限られる。さらに第四章から最終章への移行がカットを割ることなく進められるにも関わらず、実は「最終章」は物語の時系列では最初にあたり、これが見ている人を迷わせると同時に円環構造にもなっている。
はたしてアンドロイドをめぐって研究室でどのような謀略が企てられているのか、全体像の把握が本作の主眼ではない。研究室にてタラノが受ける説明の長さ、そのカットの早さ、口調の早さ、特にLEACHARが何の略か(おそらくLaboratory engineer astonishingly capable human android robot)、英語の発声が流暢すぎて聞き取りきれず、どこか上映時間の短さもあいまって倍速視聴で見たドラマの第一話のようでもある。
研究に参加した学生、主な研究室のメンバー三人、そこにリーチャーという五人のうち誰が本当にアンドロイドであるのか、また実は誰もアンドロイドではないのかもしれないという戸惑い、それが台詞の内容自体に関係もするが、最も疑わせるのは滑舌の問題だ。いくつもの滑舌良くは聞き取れない日本語の発声のうち、留学生と思われるキャストもいれば、「タラノ」という名前の学生が自身の苗字を名乗る時さえ滑舌が悪く聞こえ、実験の前の注意事項・確認事項が回りくどく繰り返される一方で「お待たせしましたあ」の口調がどこか噛んでいたり、そうした音声をめぐる違和感から誰かをアンドロイドかと疑ってしまう自分がいる。一人一人の喋りや動作の早すぎたり、また決して滑らかではない個所を見て「機械的」なものを観客である自分が役者に連想してしまう時の罪悪感、そこに昨今の官房長官が「記録が残されていない」といい、都知事が「諸説ある」という、関東大震災後の朝鮮人虐殺に加担したような心理に近いものを自らのうちに感じ取ってしまうかもしれない。この居心地の悪さ。
そしてFlip-Up Tonicというタイトルの意味が辞書を引いても理解できていない自分の中に、この研究室に閉じ込められた感覚が重なって、ある限界を改めて意識する。聞き取りにくさ、物語の追いづらさ、倫理観、こちらの感覚を振り回し、自分自身の内側にあるキャパシティーの存在を意識させてくれる挑発的な作品である。