塩田明彦『麻希のいる世界』主演の名前にマキノを嫌でも連想させる名前を使うとか(まさか相手は山戸結希か?)、やはり完全に映画の中にしかいない女の子の話に。改めて『月光の囁き』からは確実に変わっていない(関係がわかりやすく動線の演出に反映される)どころか、難病も音楽もあわさって(窃盗の話も出てくる)、クライマックスは「ない!」と言いたくなる不幸が続く。バンド結成(ならず)のドラマーのリアクションなんかおかしい(まあ、面白いが)。塩田明彦の映画に出てくる人はマイノリティではなく(塩田明彦の想像する)世界に対して独自の関係を構築している人達であって、(そりゃ究極的には増村保造にしても)映画の中の人物とは本質的にそういうものなのかもしれないが。しかし映画の中の何を見て、人は泣かさせるのか? そんな話は「演出術」にものっていたかもしれないが、もう思い出せない。「井浦新まで?ひどくない?」とさすがに言いたくなって、これはこれで『春原さんのうた』とは違う意味でノレない映画だが、「こんな奴は最低」とか現実と比べて映画の良し悪しを言うのもどうなんだ?とは思うが。映っていないことを想像させるのも映画の役割だろうが、塩田明彦の映画から想像できることは、それこそ塩田明彦の喋っている姿と重なっていろいろキツい(その意味でも澤井信一郎監督はやはり凄いと思う)。
でも『黄泉がえり』といい『どろろ』といい、要所要所で「塩田明彦は……」というタイミングはあって、『カナリア』だって今見直したら結構「ない」可能性はある。だがそんな「擁護」の手なんか少なくとも塩田明彦の映画は常に必要としていない堂々たるものだし、この『ひらいて』とか何となく連想する映画を若手が撮っているからか、ますます時代とのズレを感じて「ない」というほうがそれはそれで小賢しい振舞いにも思えてくる。それでも別に『麻希のいる世界』に塩田明彦の世界がセットになって作られるとか記録されているわけではなく、さすがに最後の最後の再会はこみ上げてくるものがある。三人が音楽を聞いての反応も『ドライブ・マイ・カー』のリハより迷いがなく(観客としてはちょっと置いてかれるが)、最後の最後にも音楽と一切関係ない説得力が役者の演出にあるに違いない。