7/17『ミークス・カットオフ』(ケリー・ライカート特集にて)

ケリー・ライカート特集にて『ミークス・カットオフ』。
去年逃して、ようやく映画館で見る。アルベール・セラやリサンドロ・アロンソと比べて、中心人物の緩慢な仕草や作業以上に、ワンショット内に予期しない動きをするコントロールされてない「些末な」物事(『ウェンディ&ルーシー』のルーシーの動きなど)を入れることに意識的に見える。男たちへの視点は辛辣なのかもしれないが、その顔の見えなさは馬や牛を見るのと変わりないともいえるし(少年は動物・男性・女性の中間をさまよう)、話し合いをする姿に「習性」を見ることはできるし、その顔が影に隠れるのは(ブルース・サーティースイーストウッドを撮る時とたとえていいのか)日差しにあたり続けるわけにはいかない人間は日陰を作らなければいけないから当然だろう。唯一の発砲をした後に虫の音が聞こえる(それは電車が走り去った後に虫や鳥の声が聞こえる感覚に近い)時間が忘れがたい。ウェンディの最後に『人生の乞食』のルイーズ・ブルックスがよぎるのと同じくウィリアム・A・ウェルマンの『女群西部へ!』のことだって題材的には当然意識されているのだろうし……。ライカートの映画は停滞した状況に置かれているせいで、むしろ動くことを余儀なくされているともいえるし、些末な動きがより目につき、耳にも入ってくる。ささやかさを過剰に重んじることもない。ゴダール風に言うなら「こんなことども」?
町山広美遠山純生両氏のTwitterでネットに上がっている『闇をつきぬけろ・真夜中の大略奪』(67)を見たらブレッソン、ベッケル、メルヴィルら(フイヤードの犯罪集団やユスターシュのやや性犯罪的なあれこれも?)プロフェッショナルによる夜の犯行、もしくは歩行と作業を撮る映画で(監督アラン・カヴァリエ、撮影ピエール・ロムの映画ってこんな面白いんですね、と見れてなかったことがショック)、同じく歩行を撮ることに意識的なケリー・ライカート(そこにアケルマンもしくは清水宏?のこともよぎる)が大きなスクリーンでかけたい映画の一本にあげていたのは納得する。アクションの蓄積で作られた時間はどこかに省略があるのだろうけれど、どこを飛ばしたのかわからない。町山広美氏の評をなぞるなら、タランティーノは杜撰なミッションがどのように破綻するかまで(非プロフェッショナルの犯行がどう転ぶかを見守る過程)を、あえて省略せずに(ときに緊張感をもって、ときに弛緩させたまま、「緩急自在」を目指すように)引き延ばして見せる演出へと変化していくが、この種の敗北の美学めいた態度(と片づけるのは乱暴だが)に対してケリー・ライカートとの温度差はある。「プロフェッショナル」かどうかも怪しいミークスの言動を子細に追うことはしない。ライカートは間違いなく時間など飛ばしている。しかしパンフレットに繰り返されるように「些末なことの蓄積」によって時間を作り上げている(同時に銃撃戦には決してならない展開というのは『レザボア・ドックス』のありえたかもしれない展開なのかわからないが、タランティーノもまた無駄話の蓄積かサスペンスかの境界線を『イングロリアス・バスターズ』『ヘイトフルエイト』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』と行き来する)。タランティーノの側はスティーブ・クレイグ・ザラーが引き継ぐといっていいんだだろうか。たぶんライカートとタランティーノを分ける前に、そのやってることの合間にはモンテ・へルマンやチャールズ・バーネットがいるのかもしれないけれど、でもバーネットは海外盤しか見てないから保留、とにかく上映が待ち遠しい。

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