7/25 『朝の夢』

配信にて池添俊『朝の夢』を見る。
いま思えば『愛讚讚』は劇映画だとしても通用する、赤い服の女と青年についての映画になっている。カラオケの画面、プロジェクションされた画面、テレシネされた画面は、その過去を再演され、上書きされ、語りとして構築されたものにする。映像そのものに触れたという感じがしない、というか作家の見てきたものを見たという感じはしない。現場で撮られたものがダビングを繰り返したようにかすれていき、作家の語りは構築されていく。構築された語りを、フィルムとカラオケというスタンダードというには曖昧な正方形に近い四角へ折りたたむように収納しているのか、それとも四角に収まらず漏れ出ているのか、そもそもそんなボンヤリした例えでいいのか。
『朝の夢』は『愛讚讚』と同傾向かつ、ますますボンヤリし、それでいてまとまっている。夜の祭りでの撮影が、ダンサー的な役者の身体を追いきれず取りこぼしかねない危うさと、屋内から屋外へワープする展開(序盤の室内の明転がワープを準備する)が、常に何か逃れていく過去という感覚にますます近い。それは作家と、その周囲の過去にあった事柄についてではなく、諸々の出来事がつかみ取れず、こぼれ落ちていく感じに最も近い。