6/26~30

6/26

ダニエル・シュミット『今宵かぎりは...』。最近は1時に寝たのに朝5時にいきなり目覚めてしまうことが多く、昨日もそれから寝られなかったせいか、前半はほとんど寝てしまった。以前見てる上に、今回買えなかった人には罰当たりなことかもしれないが、やはり催眠作用の強い映画。(レナート・ベルタトークではそれが福崎さんの口からも「季節のはざまで」撮られたことが強調されていた)。自分が目覚めてもまだ同じようなことをやっている、それが陽の長い晴天の一日だろうが夜になるような映画。ノリはシュレーターに一番近いのかもしれないが、シュレーターなら何となくどんなところで撮ったのか想像したくなるが(他にもあるが趣味人的なというか、8ミリ映画的というか、基本愛らしいものだが)、こちらの視野と動きを異様に狭められるような感覚(四角いフレームでも丸くなるような)と、あのカメラの回る動きによって、すべてを見ることができなくなる(アテネのちいささもあるかもしれないが)。映画のフレームを通して、収まりきらない巨大なものが存在するという感覚。さらにはカットバックの、人の顔を見る催眠術的な感覚だけでなく、それがまるでどんでん返しのある空間、片面さえ撮ればいいハリボテでは一切ない、観客席までまとめて舞台として放り込まれている感覚。

 

6/28

ロバート・ロッセン『マンボ』(54年)。気になっていた一本(海外版DVD出てるが)。遠山純生『〈アメリカ映画史〉再構築』カサヴェテスの章にロッセンの名前が出てきたので検索したら見つけた。シルヴァーナ・マンガーノの髪の動きが(相変わらず恥ずかしいことばかり書くが)ゴダール映画のヒロインを先駆けるみたいに見るたびドキッとする。当然そんなときめく話では全くないが(「私は機械じゃない」は聞き取れた)。シェリー・ウィンタースの汚れ役。ロッセンの映画らしくサンドバック、というかもはやトランスしたマンボを見ながらジャン・ルーシュ『Les Maîtres Fous』がよぎったが、なんと同じ54年だった。ルーシュとロッセンの名前が自分の中で結びついたことはなかった(それこそゴダールか)。アラン・タネールほどではないけど、自分はロッセンも見れてなさすぎる。自分の人生でロッセンの映画を見た時間は10時間にも満たないかもしれない。とはいえ『リリス』も『ハスラー』も『オール・ザ・キングスメン』も当然傑作だとして積極的に繰り返し見ようという気になれない話だから……。

ok.ru

 

6/29
休みの日は一日引きこもりたいのだが、先週シュミット並んだからか、ギリギリまでアラン・タネールを忘れてた。『光年のかなた』。最後に『ジョナスは2000年に25歳になる』の続編だったわけ?(2000年なの?)と「???」だったり、鼠がモルモットっぽかったり(引きの画だから可愛くも見えたけど、やっぱ身近にいたら汚いというか怖いんだろう)、あと映画に入り込むまでにやや時間がかかる(暗転のせい? ジョナスのせい?)、その点シュミットなら「Once upon a time......」だもんねえ、などいろいろあるが、なんにせよ気軽に見れるアラン・タネールの本数が少なすぎる(というかほとんどない)、もっと見たい。やっぱり面白い。レナート・ベルタトークにて青山真治監督からの言葉で「スイス映画には独特のユーモアがあり、わたしも影響を受けたつもりです」(うろ覚えですが)とあって、見ながら結構青山監督の映画を思い出すところがあった。
話はずれるが『ラ・パロマ』の「死の都」を撮る時間がほとんどなかったというが、そういえば競馬場のシーン今更だが変。シュミットといえば二年前のダンス映画祭にて『書かれた顔』のアウトテイクが2カット収まったフィルムが大野一雄邸にプレゼントされていたのを上映していたけれど、あれも『今宵かぎりは...』のダンスシーンや『ラ・パロマ』の冒頭みたくカメラがその場に円を描くような動きをしていたけれど、一種の催眠効果(トンボの目の前で指を回すような、というか手品のトランプを目の前に出す仕草というか)と同時にひょっとして、どれを撮れとはっきりした指示がない中やったことなんだろうか(現場を知らないので、思い付きだが)。そして『ラ・パロマ』の死体は土の影に隠れて映さない終盤は本当に無茶苦茶、よくあれをやるなあとペーター・カーンの周りにいただろう思いのほか役者じゃない顔ぶれと共に呆気にとられる。しかしそれでも映画は成立させてしまえる、という衝撃がシュレーターやファスビンダーにはありえないことなんだろうか。わかってはいても、これをペーター・カーンの視点へ引き戻すのは本当によくやるよなあ、なんて今更な感想だが。

zfm.tokyo