『嵐電』(監督:鈴木卓爾)

今まで見た鈴木卓爾監督作品の中でも、たぶん最もモヤモヤする終わりなのに、ストレートに沁みる。電車にちょうどよく間に合うなんて感覚は、人間が人間である以上、滅多に感じられないのだろう(あがた森魚の音楽だって、なんだかズレて聞こえる)。「行違い駅」という標示を覚えているけれど、電車があるせいで、すれ違い、忘れ物をし、乗り過ごす。列車のホームをホームとして落ち着きなんかしない。登場人物の誰も気づかないかもしれないプラットホームの灯りに、そこをホームだと思っていれば幸せだったという、今回はある意味、悲劇にも見える。
京都に、出ていくべき場所であり、フレームに時間の停まったなにかが映り込むと意識する。列車に対しスクリーンであり映写機でありカメラだと例えたくなる。京都と列車と映画に抱く凡庸さが滲むほどに、遅れてきた、間に合わなかった自分達を意識する。鈴木卓爾監督の映画を見るたびに「若さ」を感じることはあっても「新しさ」とは感じない。彼ら彼女らを見守る、ここに映りこんでいたかもしれない人たちに、我が身を重ねる。別れを別れとして認識し、再会は夢のまた夢の死後かもしれないのに、ちょっとだけマシな現実の2度目3度目を映画に求める。
それにしても、長回しの驚きという点ならそうでもないのに、「地点」の安部聡子が出ているという理由だけでなく、京都かどうか関係なく、人物同士の出し入れ・バトンタッチが同じ演劇の舞台上で交わされているように見える。その出し入れを、生で見つめる人たちがいるような、そんな演出が臭いと感じるところもなくはないけれど、ゾンビたちの出てくる映画のシーンさえ、画の奥行がとてもおかしい。「OK」のシーンかわからないけれど、誰も成功なんか映画において求めてないかもしれない。ジャック・リヴェットの『我らの親父、ジャン・ルノワール』の「地球が回転しているようにカメラは回り続けています」という言葉から『ジョギング渡り鳥』がよぎる。映画での愛の告白は皆から見守られている方がうまくいくこともある。本当にそういうことなのかは、まだまだモヤモヤが残るけれど。