『にわのすなば』(監督:黒川幸則)

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試写にお招きいただき黒川幸則監督『にわのすなば』を見る。上映館が同じポレポレ東中野という『日本原 牛と人の大地』と共に監督・プロデュースが夫妻の映画でもある。無責任なハッタリをかますなら、日本映画史上最も穏やかかつ朗らかな劇映画が誕生した、かもしれない。いや、舞台裏はバチバチなのかもしれないが。「椅子に沈み込む」という形容が相応しいガクガクな音がする冒頭(すでにポール・トーマス・アンダーソンもしくはジェリー・ルイスらに通じるかもしれませんよ!)、客層は被るかもしれない『ふゆうするさかいめ』(住本尚子)主演のカワシママリノが再就職目指して(ローベルト・ヴァルザー的に?)面接するところから始まり、カワシママリノは役柄では他称映画作家もしくはリサーチャー未満として、また役者としてはセミプロもしくはアマチュアに限りなく近い存在として、しかし周囲の出来事に対し劇としてもドキュメントとしても素晴らしく気の抜けた反応をして一々飽きさせない。ラテンアメリカ映画研究者の新谷和輝さんが最終的に凄まじいポテンシャルを発揮するのだが、まだまだ序盤のカワシママリノ・新谷和輝の散歩は映画が産まれたての子供を見守ろうとしているかのような優しさを感じる。その優しさを経て、新谷氏の一時退場後にカワシマ氏には西山真来という新たな相方が現れ、ここでの西山真来はアップよりはロングや後ろ姿が画になる、活動的な姿が印象深い(彼女が自転車に乗ってやってきた時点で、やはり堀禎一へのオマージュを感じないわけにいかないから涙が出る)。そして裏方的なはずの人々と、風祭ゆきと、カワシママリノの新たな先輩格のリサーチャー村上由規乃が現れ、失礼ながら監督・カメラマンのプロフェッショナルな場での経験を知る(さらに編集の鵜飼邦彦のキャリアを振り返るとクセの強そうな映画が並ぶ)。黒川幸則監督は年代的にも作品的にもまさに過度期の存在であって、それより以前・以後の作家にはできない立ち位置かもしれない。とにかく、キャリアの異なる人々の揃う場から本格的に女達が画面を占め、彼女たちは総じて、印象的に挟み込まれる水面や草木や、特に人物のひとりといっていいほど吹き込む風と同じくらいエロティックで先が読めない。スケボーをする佐伯美波も、そこに支えられる危なっかしいカワシママリノも、それをさらに反対側から支える村上由規乃も、三人の並んで坂をくだることになるカットが子供を見守るようで物凄く色っぽくも見えて、そしてカワシママリノと村上由規乃の追いかけっこは緩やかに始まって、速度をつけて振り回す。これらはセリーヌ・シアマの映画が現時点において絶対にできない真の遊びの時間だ。そして新谷和輝は画面に不在であって物語的には消失している間に、かつてあった今は失われてしまった何かであった気がしてくる。映画研究者・遠山純生氏が(氏の声が自然と素晴らしく調和する)彼の過去を語り、その過去に外せない女性を演じた村上由規乃が彼への思いを声に出し顔に出し、ついには二人の切り返しから、一つの画面に収まるまで、正直なぜだか彼のことが羨ましくなってきて、最終的にはギョーム・ブラックが挑戦を続けるヴァカンス映画に相応しい切なさを獲得する。二人の過去に刻んだものを、再度合流した新谷さんが体現することを果敢に達成しようとする。なにかがもう取り返しがつかない場面を二人が体現しようとするほど涙なしに見れない。ユルいようで情熱的なのだ。佐伯美波とともに『VILLAGE ON THE VILLAGE』の素晴らしいヒロインの一人だった柴田千紘も中川信夫の亡霊たち同様に引っ掻き回すようなインを繰り返し、そして工場では中村瞳太を画面の中心に、たびたび言及されてはちらつく猫を実際に撮った時以上に猫の集会に遭遇したような雑然とした魅力的な空間を作り出す。何より酔ったカワシママリノと村上由規乃が二人で夜道を歩き、そこへ歌うカワシマさんへ寄っていくカットは渡邉寿岳さんのこれまでの撮影で最も美しくさりげない画面の一つかもしれない(ただそれは『夏の娘たち』もしくはまだ見ぬ天竜区にあるのかもしれないが)。ともかくリサーチャー・カワシママリノを誘う映画は、ふだんはっきり道先案内人にはならない黒川幸則監督がついに我々(誰?)の行くべき道の一つを指し示した、かもしれないし、しかしそれはあまり付いていこうとか真似しようとか思ってできるものでもない危うい道かもしれない。ともかく見せていただいてありがとうございます。

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『日本原 牛と人の大地』

国葬の日に足立正生の映画も(フォードやミレールの映画も)見ず、ポレポレ東中野にて好評の黒部俊介『日本原 牛と人の大地』を見たが、これは正解だったように思う。個人的には菊川で見た『ゴダールのマリア』のわくわく動物親子に続いて牛の出産(逆子で大変!)、監督のカメラが破水を浴びた上に蹴られるなんて冒頭から面白いけど、とにかく魅力的な人(この内藤秀之さんという方が「自衛隊と闘ってきた」と言われても失礼ながら結びつかないというか、場面によっては忘れてしまうほどほぼ穏やかな面ばかりで、しかしベトナム反戦運動の抗議集会にて警察からの暴行で殺された友人・糟谷孝幸さんの50周忌の集会で東京に向う姿など闘志は失われていない)、その人たちの繋がりと、その循環を示すモノ(天皇が飲めて庶民の手には届かないなんてあってはならないと作られた低温殺菌牛乳『山の牛乳』はもう売ってないの残念)、日本原という場所の奇妙さ(普通に演習場の中で芋掘りとかしているが、急に日米合同軍事訓練だとかで入れないと自衛隊が言ってくるが、背景には安倍政権の採決した、菅政権下での土地利用規制法の21年からの全面施行がある)、そして牛の肥(ウンコ)を発射して走る車のスピード感が短いながら無茶苦茶面白かったり、元気な合鴨が競争するかのように田んぼを泳いだり(もちろん食肉になるシーンもある)、一々見ていて飽きない。何よりほぼ主役の内藤一家の次男、陽さんの語りが(カメラ片手に聞こえてくる監督の質問する声とも近くて、分身のようにも思えてくる)映画を入り込みやすくしていて、すっかり愛おしくなってしまった。映画それ自体が勿論魅力的だが、日本原をめぐる正直映画だけではよくわかっていなかった背景や、特に黒部俊介さんという人がどんな方なのか伝わる黒部麻子さん・編集の秦岳志さんの話など(お二人の貢献も大きいに違いない)充実したパンフレットを読むと、さらに好きな映画になっていく。必見。

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「」(Frame/Border) 企画:そこからなにがみえる 感想

「そこからなにがみえる」の企画【「」(Frame/Border)】へ行く。
『王国』明転上映では、薄明りの中での(ある意味では観客に対して優しくない)上映のスタイルが、作中の人物の「役」なのか、その人自身というものかわからない姿を見ているこちらも「観客」になりきれていないかもしれない段階に置かれる。どこか映画館の暗闇の中での上映こそ最良の環境とはいえない、あえてインスタレーション的かもしれない上映を選ぶ映画作家には、自作の映像の置かれる状況に対する意思があるかもしれない。今回の上映も外の光を遮断する厚いカーテンはなくモニターに観客であるこちらの姿が反射し映り込むため、黒画面は自分たち観客の姿を見ている気になる。決してその環境を上映会場としての不備と言いたいわけではない。また映画館というものを否定するわけでもないし、そのような主張を上映企画から感じ取ったわけでもない。ただ今回上映された三作はどれも「話を聞く」姿勢は要するものだが、それが暗闇での一対一ではスクリーンの存在が大きくなりすぎてしまう、それを避けたかったのだろうか……など意図を想像させる。ひとまず勢いで雑話会では意気地がなく言えなかった感想を書く。
ともかく一本目の『to-la-ga』(玄宇民)の作品から(それは音響というよりも)発音の聞き取りにくさに、そのままこちらも甘えるように映像に身を任せてしまい、だからほぼ語りから何も連想できなかったが、『to-la-ga』の移動撮影にはこの上映会三作品に共通する、なぜか移動ではカメラが揺れるという(しかしその揺れもまた作家たちの状況と通じるのかもしれない)カットが夜の空港にて映される。そして「豚肉は食いたくない」という言葉だけは草木とともに嫌でも残る。また最も作家自身の出自らしきものと作品の印象を繋げやすい、かつ短すぎる印象の一本だけに、この作家の他の映画がどうかを(失礼ながら)知らないまま見たことが十年前の作品にも関わらず古びずに印象に残った。
『Home Coming Daughters』(草野なつか)は一転して白さが印象に残り、そして『王国』に続き、テクストに対する話者の目の動き(それはどこか時計の針の動きを思わせる)とリズムがこちらの集中を内容と画面との間で引き裂く(そうした事態の最たる醜い例の一つが安倍晋三の英語かもしれないが)。この目の動きが、室内から一転、飛行機の音(これまた上映会場の外から聞こえる自動車の音と重なって混乱する)とともに木々を映す時の定まらないカメラの左右への動き(横切る蝶が目につく)、そしておそらく母から娘の引っ越しについて話が移ってから(それは光の明らかかつ歪な変化と共に)、いったいどこを見ているのかという目の動きがテクストからも話者を引き離す。『王国』ではテクストへの目線が、死んだ子供への目線を連想させることになるが、ここでも目の動きが母と娘の距離、(『王国』でも言及された)すべてがあるべき場所に収まっている「家」というものに対する馴染めなさを印象付け、それは実際の家の映像が映って音声が重なる時は一転して淀みなく聞こえるが(これは上映後の「雑話会」にて池添俊氏が指摘していたが)、淀みないほどにこちらの意識を平然と過ぎ去っていき記憶に残らない(が、これも意図したことだろう)。話者のいる舞台の白さとテクストの白さ、衣服の白さ、それらが馴染めないほどに浮かび上がるものがある(ところで見ながら今日が最終日の北島敬三「UNTITLED RECORDS」に行きそびれたことを思い出した)。
『燃えさしの時間について』(遠藤幹大)を見ながら『ザ・ミソジニー』(高橋洋)を思い出すのは失礼だとは思うが、まあ、しかしこの撮り方こそが『ザ・ミソジニー』に対するカウンターだと(製作年は逆だが)勝手に納得した。あの音は西山洋市監督の成瀬巳喜男からいただいたらしき按摩笛の音を思い出したが微妙に違うだろう。ともかくそうした連想に留めるのが作品の幅を狭めてしまうなら、とにかく三人の女の霊のうちの一人を西山真来が演じていたのが何よりよかった。『へばの』(木村文洋)『夏の娘たち』(堀禎一)以外では(今まで自分が見た映画に限った話かもしれないが)たしかに『寝ても覚めても』でも『スパイの妻』でも扱いが悪い。その顔立ちがどこか端役として収まりきらず、本作の幽霊としてずっと居続けているだろう状況、つまりどこからきてどこへ行くのかはっきりわからないが、そこにいつづけているという時にようやく収まるんじゃないかと思った(それを嫁入り前の原節子がいる家の不自然さに近いと言っていいのか)。『へばの』や『夏の娘たち』のように、そこに居続けた人、そして出ていくかもしれない人として(映画作家の側がその存在としっかり向き合わない限り)恐ろしく勿体ない扱いの脇に置かれてしまうということなんだと、ひとまず勝手に納得した(ただ『へばの』や『夏の娘たち』のように、汗をかき、涙を流し、白い息を吐く生きた「人間」として収まっている時の方がより感動的なのだが)。




菊川にて『右側に気をつけろ』。全然忘れていたがレ・リタ・ミツコも机叩いたり、ちょっとだけ演じていた(芝居というほどでもないが)。別に今更自分ごときが何か言う必要もないが(それは本作に限らないが)こんな映画は結局これ以外に見たことないかもしれない(あとはロブグリエか?)。飛行機内の本気のドタバタとか見ながら、本作に比べてカラックスとかコリンとかどうなのかとか連想する意味があるかもわからないが、『ブレット・トレイン』も全然この映画から逃れられていない気がするし、比べるまでもなく完全に敗けている。当たり前か。とにかく今更言うまでもないがゴダールは凄いなあと、笑えないわけでもないが、本当に笑うわけでもないし、ただ隣席のおばあさんの毛糸編みを手伝うゴダールのいうような「後悔と微笑み」という話もよくわからないままだが、ずっと見ながら自分はアホ面をしていたと思う。でもこの誰も追い付けていない感覚がまた一切古びていないというか、そういう時代と一切無縁に「追い付けない」という感覚にさせる映画だったということだが。
ジェーン・バーキンセミ人間はやっぱり美しい。久々に見直すとジャック・ヴィルレの哀しみというか、何者なのかどこへ行ってもよくわからないが、この風貌が醸し出すものこそ「物語」か? でも本当にどこから来たのかわからない。もはや赤ん坊のようというか。これまた結局ゴダールが何より見ているだけで微笑みたくなるのだが(なんで「白痴」を演じているというだけで愛おしくなるのか)『プレイタイム』よろしくいつの間にかあまり姿は見なくなり、代わりにジャック・ヴィルレが出てくる。とにかくこの映画でしかありえない誰ともつかないジャック・ヴィルレのさまよいと、レコーディング中の争点が続いているのかいないのかわからないが何故かスタジオではなくカフェの机を叩いているレ・リタ・ミツコと、ボケた画面でゴダールのエピソードの人物らしき男女も出てきて、合流したとはいえないかもしれないが隣り合うといった感覚に至るのが何やら凄い。自殺衝動があるという設定のパイロットの繰り返される横顔も、ゴルフ場のすました顔したジャック・ヴィルレも、または走行中の車内のジャック・ヴィルレの手錠がかかった手と、車窓と、何らかの激昂した声と、そこに外せない向かいにいる刑事らしき相手と、そしてスタジオではなくカフェで机を叩いているレ・リタ・ミツコも、どれも彼ら彼女らを捉えていて、だから三つの話があろうが何だろうが関係ない(どうもナンニ・モレッティの新作もそういう要素がありそうだが)。
またはゴダール全発言・全評論1のタシュリンについての「撮影中」と題された文にて「アメリカのコメディーを撮影するということは最も真面目な仕事のひとつである」という意味での「最も真面目な」の最果てのような映画? なんとも「真面目」とか、本気とか、その種の言葉というか、もしくは「ヤバい」とか、「ガチ」とか、もう徹底してそんな調子で、何やら話があるとして合ってるかわからない言葉(それは「引用」というやつだろう)を字幕で見ても、そんなことが笑って済ませられないかもしれないのに、それらを受け入れられないまま「ガチ」として過ぎ去ったからなのか(映画は目で見て耳で聞くから)、そういう言葉にしがたい何かが反射的に次々と音みたいに自分の内から出て、しかしそれが少しも理解した気にならない、頭では追いつかない? だから多少ボンヤリもしてくる内に不意に映画が終わりそうなクレジットが出て、頭を切り替えようとしたところで、もう少しだけ続く。本当に掌の上で踊らされてる感じか? まあ、それも映画に追いついていない今更な感想だが。

PFFにて『WiLd LIFe』。上映後の豊原功輔・七字幸久・杉山嘉一・野本史生トークが楽しくて諸々の予定が狂った、でもこれは生で見れてよかった。『空に住む』の青山・黒沢トークでも黒沢清がなぜか指摘する一幕がおかしかったけれど、『WiLd LIFe』の停め撮りは、こんな暗い中でユラユラ行ったり来たりしていたっけと、かなり面白かった(撮影・柴主高秀)。ビデオモニター内の映像を舞台風にワンカットで再演して、そこに見ているはずの(読んでいる)現在の人物が最後に入り込んでくる(しかも清順的な色彩の微妙な変化もあり、これを見ると『はい、泳げません』は真面目すぎに見える)って、他にやっている映画は見たことないと思う。いや、デ・パルマがそうなのかもしれないが、デ・パルマだともっと映画の主題と結びつきすぎて何がなんだかになってしまうから、清順や神代が見れて本当によかった。廃屋だかヤクザ事務所だかに光石研が幽霊みたく映り込むのも忘れていた。上映後のトークにて『ワイルド・ギース』のキャスト順について『ユリイカ』撮影中に話しているうちに喧嘩になったと笑っていたが、江角英明のクレジットの順はいつもかなり気になる。『エリ、エリ〜』ラストは生前の氏の活躍に敬意を払ってのこれまでの微妙な位置に対して、堂々と捧げられていて泣かせる。

菊川ストレンジャーにてゴダール『パッション』久々に見直す。
ピノキオ』のビームもヤバいが、空と飛行機雲のガクガクになるショットが改めて見ると「これが許されるのか」と唖然とする。
監督(この名前は覚えられない)が刺されてから、ユペールと会話するフィックスのショット、背後ではラズロ・サボが窓をドンドン叩いていて、途中「開けてやれば?」なんてやり取りもする(このあたり序盤の工場での口元と音声の合わない場面の狂いそうな場面と対になる)。細かい内容はうろ覚えでも、役を生きているということなのか、前後がなくても(そしてゴダールの映画と言われなくても)見ていて、サイレント映画もしくは鈴木卓爾のワンショットの映画に通じる豊かさというか、かつて愛し合っていたのか、これから愛し合うのか、少なくとも(その場にいるハンナ・シグラをモニターと並んで見る時に言うような意味での?)物語がある。そこに途中から窓が開いて割り込んでくるラズロ・サボの素朴というか場違いというか、男子ぽさ?というか三枚目というか、ともかく見ていて自然と笑顔になるような姿が本当に愛おしい。これだけでもゴダールが本当に優れた演出家なんだと思った。
続くユペールに対して「着なくていい」「脱いだままでいい」という実にゴダールらしいカットを挟んで、暗い階段へ光が当てられているショットがまたゴダールが撮ってないと言われても、それでも素晴らしかった。ノワール?ドイツ映画?サーク?スタンバーグ?相変わらずうまく言えないが、この光が本作で繰り返される「光」と「物語」と闇が一切切り離せない濃さというか、ともかく階段は不吉で、うらぶれたハンナ・シグラへのスムーズといえないズームによって顔が霞んでいき、本当にハンナ・シグラを独占しているとしかいえない、ファスビンダー映画以外でこんなズームがありえたなんて、とショックを受けるくらい。さらに暗闇で物音がしてミシェル・ピコリが口に咥えては手で遊ぶチューリップの蕾が見えてから、そのままカメラは引いていき(美しい固定ショットをあえて崩すような寄っては引くカメラ)ユペールが過ぎ去る。そして次には子羊と裸体の女性がスタジオ内の階段をのぼり、異なる光と影がユペールの裸体を包むような美しいベッドもあり、次々と繋がってるのかいないのかわからないほど異なる印象のショットが続いて、あまりに唐突に(しかし説明しすぎたら失敗するだろう)雪景色で踊る女が映画を終わらせる。
「注文をメモするから」と言いながらなぜか脱いで海老反りするのは物凄く覚えていた。ミリエム・ルーセルが星の形になる長回しもヤバいけど、そのショットの最後はラズロ・サボ(やはりこの名脇役ぶりが愛しい)と監督の座った後ろ姿がなんだか可愛らしい。馬がスタジオをドタドタ動いてユサユサ人を乗せているのを見ながらフォード特集のことを思い出す。ステヴナンのキックには笑った。

ミゲル・ゴメス、モーレン・ファゼンデイロ『ツガチハ日記』はタイトル何語じゃと思って見たら謎が解けた。ありそうでなかった時間逆行バカンス映画になりそうで、そうわかりやすい構造にも、ややこしいことにもならず(というか、その辺は途中で話してくれる)、というか、よりユルい側へ逸脱していった。話が先に行かないとわからせてからかミゲル・ゴメスということか? 広島で『アラビアンナイト』最後まで見た後に「これでいいんですか?」と恐る恐る知人に聞いた覚えあるが、それほど凄いというより、なんとも「これでいーのかしら」感はまだある。なぜか……。そして食後の眠気に襲われる。いや、休みの日に見るには気持ちのいい映画だったが。

菊川に戻って『JLG/自画像』。ユーロスペースにて初めて見たときの、暗くて、眠くて、ジジ臭い本作の印象が激変。グザヴィエ・ドランに限らず若者が平気でジジ臭い映画を撮ると知ったからか(それはたぶん今に限らないが)、あれからルソーの映画もギトリの映画も、あの頃よりはいろいろ見たからか、90過ぎのゴダールまで見たからか、もう超絶元気でカッコいい映画に見えて驚いた。まあ、若々しくテニスをしていたのは初見から覚えているが……やはり若く美しい女性もいる。無人の室内もゾクゾクするが、もうゴダールを見て、声を聞いているだけでいい(これは亡くなったからとは別問題)。何より短い。ただあの頃のフィルムで見た画面が暗くて眠いけど何やら凄いんじゃないかと頑張って見た『JLG/自画像』こそ本物で、こちらはステロイド注射でも何かした別の映画と言われるかもしれないが。

自宅にてフランク・タシュリン『腰抜け二丁拳銃の息子』冒頭からゴダールか?というナレーションとストップモーションの組み合わせ。さすがだ。凄い。『おしゃれスパイ危機連発』序盤の刑事のズボンを脱がせるくだりといい、サメかと思いきや小魚やイルカがやってくるところといい、下半身ネタが『勝手に逃げろ/人生』とかよぎって面白い(というと下ネタみたいだが)。ドリス・デイリチャード・ハリスが互いに自白剤を打ち合ったり、ジェリー・ルイスとの諸作や『女はそれを我慢できない』のジェーン・マンスフィールドといい、その人自身、というものを追おう(そして掴むことはできないのかもしれない)という一貫した主題は、まさに映画そのものなんじゃないかと思う。

マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』あれよあれよという間に……(と黒沢清監督が書いていた)な映画で、よくわからないところもあるが悪くない、良い感じの映画だった。『バルバラ』もそんな映画だったが。マルセル・アヌーンの四季シリーズのことも思い出した。マチューの四季なら、じゃあ季節は何なんだとなるが。雪景色はとりあえず出てくるが冬という感じかもわからず。マチュー・アマルリックの映画といえば、これも青山真治監督のベストに入っていたのかなと思いながら見た。序盤の酒場で旦那の名前呼びながら後ろから客をハグするところがチョいとエロい。マチュー・アマルリックをベン・スティーラーと並べたくなることがある。『LIFE』ぽいから? でも監督としても役者としても似てない。単なる思いつきか。ともかくもっとマチュー・アマルリックに撮り続けてほしい。

左幸子『遠い一本の道』もアマプラにあった。鏡に映る左幸子の口元と音声がずれていき、左幸子の背中が映っているから余計に技術面の限界を逆手に奇妙な印象を残す(編集:浦岡敬一)。酔って帰ってきた井川比佐志が寝るまでに、家にいて迎えているはずの左幸子が画面外にいて、その場にいる人ではなくナレーションのように聞こえたり、それが彼女自身が監督ということと、その彼女の妻としての役割とが重ねられているような。軍艦島の音の出ないピアノが忘れがたい。窓に映り込んだ人物の語りも面白い。監督としての左幸子も凄かった。田中絹代左幸子マチュー・アマルリックも、役者でありながら重要な監督だった。終盤の1シーンしか出てこない西田敏行に笑う。

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まだパラパラめくっただけだが、ついにこんな本が出たか!という驚きはある。
アケルマン特集謎の人気ぶりは噂に聞いたが、結局なんだか「じゃあ今回は初見の人にお譲りしよう」と、まだよくわかってない人間のくせに見に行かなかったが、もしかすると渋谷ミニシアター界隈ではヴェーラ安藤昇特集以来の賑わいだったんだろうか。
それはともかく。
アケルマン特集毎日のプログラムが記載され、その日の各回に行った人の日記が載る。いや、映画祭日記ルポ的なものはこれまでもいろいろあるが、これはもう本当に映画祭日記というよりアケルマン特集期間中のある人々の日記なのだ。
まあ、アケルマンに関する文献として充実してるかはさておき、こんな映画ジンはなかなかない(どの特集でもできるわけではない)。
そして自分みたいな退屈な映画オタク風の中途半端人間はもう何もかけない。僕って魅力もないし孤独も知らないウザいだけの甘えん坊ですからね、そんな人の日記読んで心の支えになる人はいません。まあ、映画好きらしき中途半端人間というだけなら腐るほど居場所が仮想空間に用意されている。
嫉妬。それしかないが腐った記述にやはりなったが。記念に買って損はない。いや、そんな浅ましい書き方は望まれないだろうが。

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高橋ヨシキ監督『激怒』を見る。「意外と歪なのが面白い」と聞いていたが、本当にゴツゴツするところほど面白かった。そこらの映画(具体名はボンヤリ思い浮かばない)よりは本作やマチュー・アマルリックの映画のほうが面白い。まあ、マチューはまた撮るだろうが、本作みたいなことは何となく今後厳しい気がする。いろんな意味で嫌なくらい微妙な時期だから、最初で最後かもしれないが、映画を撮るとはそういうことかもしれない(いい加減なことばかり書いた)。
そして川瀬陽太を見ているだけで何だか面白かった。一本の映画の中でどういう人物なんだかうまく言葉にできないが。ともかく川瀬陽太という一人の人間と、映画が作った川瀬陽太(ビールをマシンのように飲んだり気づいたら土下座したり激怒したり腕から骨が飛び出したり冷静になったり鳥を見たり)が両方ゴツゴツ存在して、何がなんだか意外とわからない良さがあった。それは歪ということかもしれないが、映画を見ながら、もっとこういう役者と映画をめぐる謎に浸りたい。
中原翔子の署長がよかった。最初に暴力振るわれるのが吉岡睦雄なのもよかった。憎たらしさでは向かいに座ってるのが見えた時点で喧嘩するのがわかる、ダンサー相手にしつこく絡む刑事二人組(一人を足立智充)が断トツだった(妻夫木聡ぽいが)。あまり殴られてるように見えないのが残念だった。新署長登場の音楽は笑った。西山真来さんは残念ながら良い出番なかった……。

大森立嗣『グッバイ・クルエル・ワールド』。『激怒』と続けて見たら、何人か同じ人が出ていた。奥野瑛太はどっちも主人公にとって何の役にも立たない弟分で、どちらもよかった。特に『グッバイ~』の西島秀俊の過去を語るところが映画としてもよかった。『激怒』は署長以外発砲しない設定だが、『グッバイ~』は終盤になるほどほぼ全員撃って撃たれて出血。全員、身体に穴が開いてると思う。これもタラ風だったら嫌だと思ったが、各々の素性が明らかになりシブくなる。石井隆が亡くなって、北野武の新作がどういうわけかお披露目されない年の一本という感じだった(もちろん深作欣二中島貞夫のことも忘れていない)。さすがの鶴見辰吾片岡礼子だった。玉城ティナ宮沢氷魚の鉄砲玉ぶりが意外とはまったり、微妙に思ったりと、見守るような気分になる。良いか悪いかさえはっきり言えないくらい頭の中がモヤモヤしているが、でも全員主役だって思えれば、多少の微妙なところもどうでもよくなる。だってあそこありえないとか微妙とかタルいとか何とか言われても、まあ、みんないろいろあるというか、食うか食われるかではなく、誰もが食われていると伝わりはした。群像劇を目指せばいいという話ではないが。

映画館で見れる時にとも思ったけれど、結局ディズニープラスに加入してロバート・ゼメキスピノキオ』を見る。カラックスとゼメキスが人形映画を近い時期に撮るなんて、とこじつけたくなるが、質感は全然違う。昔の映画とほぼ同じ(らしいが、そもそも本当に見たかも怪しいくらい覚えていない)はずなのに、評判通りゼメキスの映画。冒頭の時計からして怖い。悪ガキとロバも怖い。そして酒と魔女がまた出てくる。引きこもりのトム・ハンクスも雨の日に今回は外へ出ざるをえない。『キャスト・アウェイ』以来かもしれないトム・ハンクスの溺れるシーンもある(ということはピノキオはウイルソン君か?)。25~30分近くの時間を飛ばさずに続く冒頭のシーンに対し(このあたりも昔の映画と同じなんだろうが『マーウェン』といいCGによるミニチュアと実写の世界が繋がって、じっくり進む時間が作られていく)、その後のわずか一日だけの凝縮された旅、前作の魔女映画に続く始まりと終わりの構造も相まって、もう元の場所へは帰れないという気にさせる。褐色の人形遣いピノキオの交流が終始とにかく泣かせるだけに、その合間に出てきた悪ガキとロバ頭の怖さがまたおかしい。

高橋洋『ザ・ミソジニー』そうきたか……という。リモート映画を経てのヒロシヴィッチ流「上演の映画」解釈の現時点での到達点? もう怖いとかおかしいとかトゥーマッチな印象もどうでもよくなって、ただただ「そうきたか…」と繰り返し心のなかで呟いた。その意味で「ミソジニー」というタイトルのことも見ている間は忘れた。舞台へ行くまでの森が素晴らしい。根性悪い女も出てくる。河野知美とは何者なのか? かつて『大砂塵』を「最も狂った映画」と書いていたり、『YYK論争』はじめ沖島勲の映画の母・女優・女について語っていたことなど思い出した。ともかく高橋洋の世界には置いていかれても、しかし映画自体は「そうきたか…」の試みの連続で、その役柄や舞台の変化が興味深い。

 

 

たまに『炎のデス・ポリス』を「傑作とかではないが面白い」とか「まあ、普通」といった感想を聞くが、どうせそれは自分が映画よくわかってないから思うんだろうと被害者意識で黙って聞いてはいるが、本音では、これこそ傑作であって、正直今年これより胸の高鳴る新作映画は『アネット』や『リコリス・ピザ』含め見ていないと思う。まあ、自分は映画のスタッフも上映も何もやってない馬鹿な素人なので、ただの自分で見る能力ない、よくわかってない人の思い込みでしょうが。たとえばギヨーム・ブラックの『みんなのヴァカンス』がこれまでの作家の映画の中でも頭一つ抜けた解放感というか幸福というか、もうどうでもいいくらいの良さだったように、『炎のデス・ポリス』も何かがジョー・カーナハンという名前の収まらない風格に突き抜けたと思う。ともかく、これは何度でも繰り返し見たいけれど、まあ、一回しか結局見ていないのですが。

ニコラス・レイ『無法の王者 ジェシイ・ジェイムス』。録画。いろいろ仕事のことで頭がいっぱいな時に見たせいか、初っ端の撃ち合いから、異様に美しい海への崖っぷちダイブ、雨上がり、もろもろ意識が追いつかず、ただただなんか凄い映画を見た!という感じだけが残る。その意味で『ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』までブレがない! 記者の出番があるようでないとか、最後はあいつの歌と立ち尽くした人々で閉めるのが本当に視点と時間が狂うというか、何らかの本質に触れているという凄さ、と整理しきれない頭の感想しか書けない。

デヴィッド・リーチ『ブレット・トレイン』期待していたけれど確かに面白くはなかった。最初はいいんじゃないかと思っていたのに、プリンスの芝居につきあわされたり、ブラピが刺される手前で時制がいじられるうちに、ああ、本当に今回はヒッチよりもつまらないタラ風に事を進めていくんだなあと(この監督にそれはしてほしくなかった)、だんだんダレてきてガッカリ。こういうことされると良いところを見る気を失くすくらい、いつの間にか萎えていくのを久々に体感する。でも凄いところは凄いなあと呆れたから、やはり見たほうがいいかもしれない。デヴィッド・リーチの映画は(個人的には『アトミックブロンド』含め)微妙なのに、いつか無茶苦茶面白くなるんじゃないかと気になる。マイケル・シャノンの悪役は貫禄があったと思う。あと終盤のゲストは悔しいけどよかった。

国アカサイレント特集は青山三郎監督『結婚適令記』(33年)だけ見れた。冒頭の自動車事故の撮り方から面食らう。続く鳥の舞う空のカット。鳥たちはもう一回、空はもう一回出てきてどれも驚く。清順の遥か前から予測のつかない画を永塚一榮が撮ってきた、と言っていいのか。タイトルさえうろ覚えだったから『天使の顔』みたいなノワールかと思いきやラブコメスクリューボールコメディと似て非なるような、そのものズバリのような不思議さが面白いというか(この手のことを判別する勇気がいまだにない)。冴えない記者だった杉狂児(「温室の花みたいな」だっけ?僕も言われたことがある)に向かって、『静かなる男』のモーリン・オハラばりの角度で見つめてくる伯爵令嬢が魅力的すぎて何を思うかと怪しくなってしまうくらい。親が選んだ望まぬ結婚相手の前にけだるくやってきた時の反抗期か?という態度がかなり好み。杉狂児との仲が縮まって、それをあえて映画はちょっと離れて見るような雨宿りの場面が、サイレントだけれど二人の声が雨音に消されたかのように聞こえて、そこへ傘をさした女子学生が通りかかっての展開(まあ、彼女には迷惑をかけているが)がさらに気が利いていて、この映画全体に一貫した距離感は感動する(それゆえに冒頭の事故や、中盤の鳥の不意打ちによって崩すのも効果がある)。場面終盤の急変には、そこでの煙の効果もあってか一気にウルっとくる。杉狂児以上に丸顔丸眼鏡の先輩女性記者も単なる通りすがりにしては目立ってるくらいだったのが、彼にまともな指導はしないが、ちょいちょいいやな感じに構ってくるうちに、(これまた『静かなる男』のジョン・ウェインモーリン・オハラじゃないが)杉狂児から壁ドンされるのか?という引っ張られ方をされるうちに(この事務所から廊下への場面転換というか、廊下でのやり取りがまた良い)、なんとも忘れられない輝きを放ってくる。ある時期の市原悦子、今ならオークワ・フィナか? やろうと決めて成し遂げられなかったことはない!という姿勢が最終的に「けなげ」という言葉で済ませられない活躍をするが(というか、もう一人の主役だ)、伯爵令嬢への対抗心から嘘をつくカットでのアップが強調し過ぎない照明の効果もあって余計に恐ろしくなる。序盤に杉狂児を陥れたともいえるカップルが後半話に絡んできて、特に芸者は怖くて色っぽい。「男のヒステリー」起こして暴れまわるかと思いきや、椅子にでっぷり沈んでいる伯爵、憎たらしいわからず屋に見えて、意外とつぶらな瞳が可愛くてびっくり。青山三郎監督について検索したら曾孫が映画を撮っていた、あのシネマ・ロサで上映していた映画かと知り驚く。

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