カール・ドライヤー『奇跡』@早稲田松竹

カール・ドライヤー『奇跡』@早稲田松竹
父親同士のやり取りにて、娘の側の親が席の反対側へ移った時に、相手を呪う態度に変化する。
医師が去ってから窓の外を父子が見る時に、窓の外側から彼らの顔を撮るよう切り返す時、両者の位置が入れ替わる。
こうした立ち位置の転換がドライヤーの映画に、かなり瞬時に、事態を変化させているというのはわかりやすい。
それは一人ではある意味起こらない事態かもしれない。二人いるから、その立場が変更されることもありうる。
「神と私」という状態よりも、「一人で祈る」と息子と離れ父が歩き出す時に、牛の鳴き声が被さる、何らかの(ブニュエルというよりオリヴェイラ的な?)滑稽さというか、侮辱への、背信行為への怒り?というよりも、もっと単純な言い方がありそうだが。そこへヨハンネスがインしてくると笑ってしまえるかもしれない。だが笑えない。そこに緊張感があるから? それとも本当は笑っていいのか?
何より死者を目覚めさせるという行為。そこでの娘がわざわざインしてきて(「子供だから何も知らない」と祖父が言うところも、たしかに愚かな者へ向ける視線を感じる)、ドキュメンタリーで見たようなバストショットを挟む。彼女の笑みの入れ方が、本当に、ここ最近まだやってるのは『アネット』くらいじゃないか?という、これが本当に許されるのか?という。あまりの素朴さ? 現実をよくするための発見? そして事が終わると、わざわざ御役御免とばかりに、保母に連れられ、画面から出ていくのもおかしいといえば、かなりおかしい。医者が牧師を抑える時の妙な感動。同時に、彼女が死んでしまう前の、医者と牧師の座る位置がシンメトリーに定まった時の、かえって不安を呼ぶ謎(これこそオリヴェイラ的なのか?)。「御言葉」という題だが、「奇跡」というよりも、一人死んで事態が良くなるという状態に対する、そこで死者に死んでいるのをやめて蘇ってもらうという、信仰への揺さぶりというか、単純に信じられないことが起きる映画。同時に、自分たちは何も信じていないかもしれないという揺さぶり。「信仰が足りない」ことへの怒り? というものでもない。
ドライヤーは信じていたことが崩れるというか、何も信じていないかもしれない恐怖というか、どういえばいいのか。
そもそも信仰の問題をかなりいい加減にこちらが捉えていても、この動揺は変わりないと思う。それくらいここに出ている人たちが死者の復活の前に至る、あるアンバランスな状態は危うい。信仰心の足りない(というのは何なのか?)旦那は彼女の棺に蓋をすることに我慢ができないが、それでも彼女を復活させようという時に一度は妨げようとする。だがこの動揺は何を信じているのか、信じていないのか、もはや何とも言えない。
蘇生してから旦那の首元から顎あたりへの接吻が、このまま肉を噛み切るんじゃないかと前に見たときも妄想したのを思い出したが、それは吸血鬼というよりもゾンビの行動なんだが、やはり一度死んだ体は口元に水より何より血の通った生きているものの感触を求めて吸い付きたくなるんだろうか(『裁かるるジャンヌ』には火刑の間際に、ファルコネッティと乳房に吸い付く赤子とのカットバックがあったが)。つまりは冒涜スレスレの行為? だがそんなことで「恐ろしい」という言葉で済ませられない。
笑いと怒り? 果たして本当に笑っていいのか。果たして本当に怒りなのか。
流産し四つに裂かれて死んだ弟は生き返らない。肉体さえあれば、という問題でもない。
「時が腐っている」という言葉は凄い。ここでは時が腐っているから何もできない、とは。ただ人が死んで、それを受け入れる、不在を受け入れる腐った時間。
『ゾンビ』に死者の不在はなく、エレベーターをくるっと引き返すように、ただ死体も動く世になれば不在はないのか? 一方にゾンビ不在のロメロでの妙な空虚さ、いや、寂しさ、孤独は何なのか。充実は、自分が何かせざるをえないという「必死さ」というものは死者が蘇らない限りない? 

眠りの浅い日が続く。早稲田松竹にてカール・ドライヤー『怒りの日』と『ゲアトルーズ』を見る。
ゲアトルーズ』(だけでもないが)を見ると、はたして自分は必要以上に身構えてしまっているのか、集中しようとしているのに大事なところをわかっていないまま見終えたんじゃないかという気になるが、そもそもここで語られる出来事をわかったといえる日が来る気もせず、意外と笑うところもある(序盤のおばさんの訪問とか)。「大臣の妻になるという気分は?」なんて聞かれたら、これからどうする? 久々に再会した女性が、自由人というか遊び人的な若い芸術家に遊ばれているかもしれないとしたら? これ以上ない屈辱かもしれない。自分自身というものであろうとしても宗教や地位やキャリアやプライドや恋愛そして友情がない限りは人間としてありえないという、ぼんやりとは頭をよぎることが(その大半とまともに自分は向き合っていないが)、これでもかと語られる。演劇的というか、家庭・公園・どこかの会場・ベンチ・ピアノ、そして数十年後の空間での、もう何らかの生きるか死ぬかの境界みたいな(人生の突破口を見出すしかないというか)。
『怒りの日』にも一回だけ確実に笑うところがあったが忘れた。でも親子にしか見えない夫婦の、それがどれほどの教会の権威があったとしても隠し切れない間違った男女の組み合わせというか、母子が夫婦にしか見えない歪な二組で出来た家庭が、むしろ夫の死を妻と義理の息子のカップルが(一人ではなく二人で)願うことで、むしろ是正されるというか……。彼女が吸血鬼になったと言いたくなる、黒い衣装のまま歩く彼女を追ううちに影に化けかけるような画の怖さはヤバい。それでも誰かの死の翌朝というのは、あの霧に包まれかけた男女が水辺で座って語らう後ろ姿の不道徳も怖さもこの際関係なく、ざわつかせるが愛しくもある(そこに二人がどういう人物なのかを考える必要もないような)。
「一人ではなく二人で」というのは『怒りの日』でも『奇跡』でも大事なことだったと思うが、接吻もしくはそうなりかける男女の向かい合ったカットの後では、その男女の向きが何らかの仕方で入れ替わる(それはカメラ位置の場合と、実際に男女が動くことの少なくとも二種あって、その演出の差は確実に考えないといけないだろうが)というのも、「一人ではなく二人でしたこと」という印象に繋がるといっていいのか。『ゲアトルーズ』の三人で乾杯して「これからは各々一人だ」という時の凄さは何なんだろうか。
以前、ジョー・サルノが「ベルイマンは俺の映画の影響を受けている」(逆ではない)とDVD特典のインタビューで捲し立てていて、でもそこはさすがにドライヤーなんじゃないかと思うが、ジョー・サルノの斜め後ろに相手が立っていて延々と話すという構図もドライヤーからいただいているんだろうか。

自分はケチくさい性格だから、なるべく行きたくないケイズシネマにてオスカル・カタコラ『アンデス、ふたりぼっち』。「ふたりぼっち」って、そんなに普通に使う言葉なのか? 睡魔に負けて前半をほぼウトウトしながら老夫婦が拙く喋って生活してるなと思っていたら、S・クレイグ・ザラーの映画でも見ていたのか?(まあ、違うんですけど)という不幸が襲うので驚いた。食人族でも悪徳刑事でもなく、キツネか不注意か知らないが。カカシや石が印象深い。

『みんなのヴァカンス』を見る。ギヨーム・ブラック、まあ、いいんじゃないですかくらいの印象(失礼)だったのに、そしてたぶん見てないのもあるけれど、これは無茶苦茶いい。一気に唯一無二の大事な監督になってしまった。もう大したことは何もやってないんじゃないかというくらいなのに、パンフレットを読んだら役者陣との繊細なアプローチがあったからこそといった話が書かれていて、さらに感動。

『サンガイレ、17才の夏。』(アランテ・カヴァイテ)

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こちらの2015年ベストにて(新人監督賞として)名前を知ったアランテ・カヴァイテ『The Summer of Sangaile』(劇中のタイトルはSangailė)がようやく日本語字幕付きで配信されたから見た。

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Sangailė(サンガイレ)は「名前にふさわしくない」「強さがない」と母親から幼い頃に言われたらしいが、たぶん検索したところ「ailes de sang」血の翼、または「血の鷲」から由来していると思う。ビジュアルから女の子二人のバカンス映画かと思っていたが「血の鷲の夏」だと『ミッドサマー』になってしまうが、それでも本作の飛行機の曲乗りと自傷行為のイメージに相応しい。
高い所と痛いこと。映画で見ていて苦手なもの2トップ(あとは乗り物酔いと虫もある)。高い所なら今年に限っても『トップガン マーヴェリック』『シャドウ・イン・クラウド』、痛いことならクローネンバーグの新作が待っているだろうけれど、おそらく自分自身に限った話ではなく、いま見ていることが自分の身体にも起きているのかという不安。だが本作では生理的にそのように煽りはしない。
飛行ショーと、それを見つめる若い女性。その興奮と喜びの影には、死と悲劇の訪れる可能性がある。曲乗りへの夢と死の誘惑はセットだ。彼女は階段が印象に残る家へ帰ると、腕に注射でもしたのか、意識が飛ぶように得体の知れない空撮が入って、だがそれはトリップではなくコンパスによる自傷行為とやがてわかる。そのサンガイレの傷口がこちらの目にも見えるようになる頃と、ショーのクジ引き(彼女は「無垢な手」の持ち主らしい)をきっかけに知り合ったアウステとの間に同性愛的な関係が結ばれる時は重なるかもしれない。彼女は傷口を数える。妙な距離感が関係に繋がる。傷口はアウステのカメラを通して、本当の傷と作り物の塗られた色との間を行き来する。だが二人の女性が恋に落ちることは、同じ車内で並んだ時からわかっていた。もしくは周りが水着の中、一人だけ着衣のまま眩い水の中に落とされ、ただおそらく笑いながら身体を浮かせ泳ぐカットも美しかった。
楽隊の演奏やプレイヤーから流れる音楽、台を動かす音、水の流れる音など繋がっていて、そこでの人物の動きも視点も繋がっているけれど、カットを切り返すうちに時間が飛んでいるかもしれない繋ぎ方がある。たとえばアウステの部屋に初めて遊びに行き、そこで彼女の写真を見て、服を脱ぎ、寸法を測るまでの時間は繋がっているけれど、現実にはありえないくらい短い。その後になぜか音楽が途切れず外から聞こえる距離にワープしたかのように、自転車に乗って帰るカットに繋ぐ。この浮遊感が時制や虚実を狂わせることもある。一方では同一のカップルのセックスは一度しかはっきり見せず、二度目は省略するということもやる。傷口を隠すための縫い物から虫まで紐状(コード?)のモチーフが、たとえば天井に吊られたオブジェ、または排煙となって飛行機にもつきまとい、なにか浮遊と同時に地上との距離関係を狂わせているかもしれないがわからない。しかし母親の涙を流すまでの長すぎるとも短すぎるとも一切感じさせないワンカットを経て、あの空撮が彼女自身を見つめだす時から変化する。今日やりたいことが難しいから、ちゃんと明日にやる約束をする。夕暮れの鳥の群れを見上げるでも見下ろすでもなく遠くから見つめたようなショットから、そのまま二年後という字幕が重なる。時間が確実に過ぎていく。それでも終盤には翼に書かれた「My Dream」の字と、かつての写真が時間を前進するとも逆行するとも、前進してもその先には死が待ち受けているとも、つまりどのようにも解釈できるかもしれないが、不思議と感動的な別れが待っている。

自宅にて青山真治監督『EM エンバーミング』を見直す。これも「好きな青山作品は?」と聞かれて名前を出した覚えがあるが、やはり全然覚えていなかった。南北戦争に始まって、ジョン・フォードから統一教会(「結婚」という主題も絡んでくる)まで、これで青山監督が生きてれば…と不謹慎に言ってしまいそうなくらい、今の映画か。新興宗教が出てくるといえば『冷たい血』と『名前のない森』という印象だったが、橋本以蔵との共同脚本だからか、さらにエグい。でも「一番好きかも」と口を滑らせてしまうくらいには、エグくなりすぎない作り物の軽さもあるかもしれないが(ユルグ・ブッドゲライトって今どうしているんだろう)。生首が『サンゲリア2』みたく飛んでくるかと思ったら、ロングで倒れるだけ、でもギョッとした。首を針で刺されて、というのは『続 殺しのらくいん』(『ピストルオペラ』)か『怪人マブゼ博士』なんだとして、鈴木清順は殺されたかと記憶していたが、なんか手を振っていて、本当に何なんだって感じ。劇中で「凡人」と呼ばれるが、凡人がヤバい人を上回るのか、映画の中で凡人でいるのはヤバいということなのか。しかも回想では若返る。それにしても三輪ひとみといい、『シェイディー・グローヴ』も『冷たい血』も自宅にカルトとは別方向に(分派?)スピって儀式している人がいて、それはフリッツ・ラングに対するジョセフ・ロージー的な行動かもしれないが、ともかく「スピってる」という言葉を聞くより早く見た映画だが、まさにスピリチュアルというより「スピってる」という言葉を口にしてしまいたくなる妙な距離感が『シェイディー・グローヴ』の部屋とか『こおろぎ』のわけのわからない感じになるのか。「カルト」とスピの間に差異があるのか(統一教会とオウムの差異?)、スピから過激化という「令和のテロリズム」への関心まで貫かれるのか、それともスピも集団化するのか、『名前のない森』の集団はどうなんだっけとか、その辺は中上健次、フォークナー、オコナーをちゃんと読まなければいけない時なのか、『名前のない森』はリアルタイムで見て独特の引きずる嫌さがあったが(一応は濱マイクにあるプラプラしている佇まいと、あの集団とは遭遇してほしくない嫌さがある)、その時はまだ『ルパン対複製人間』は見ていなかったし大和屋竺の名前は知らなかった(『忍たま乱太郎』は見ていたが)。『AA』の水際の主観とか見直したいが、あとはなんとなく二冊ほどの書籍が出るのとPFFの特集まで見返さない気がする。

ドン・シーゲル『殺人者たち』クルー・ギャラガーが亡くなったと知り見直す。クルー・ギャラガーは意外と若い頃の宍戸錠っぽい。盲学校の二階へ殺し屋コンビが上がってからのカメラを傾かせた廊下とカッコよさと足元の揺らぐ不安がミックスされた、恐怖と興奮を同時に感覚できる冒頭が既にヤバいが、死が迫るジョン・カサヴェテスへの俯瞰ショットと組み合わさる。「〇〇(監督名)の俯瞰ショットが凄い」と何人かの監督について言われるたびに、自分は気づけなかった、自分は鈍感だと惨めになるが、この際、俯瞰ショットは全てヤバい、ということだと思いたくなる。あと撃たれるカサヴェテスも、そのあとの二人でカサヴェテスをメッタ撃ちも、ハチの巣というにはあまりに何も弾がないように見える感じが他のサイレンサーを使った映画(そんな思い浮かびませんが)から頭一つ抜けている気がする。見返すとアンジー・ディッキンソンのゴーカートが今のアイドルの映像にも通じるような馬鹿みたいなヤバさ、カサヴェテスの白痴のような青空バックのレースのヘンテコ具合がさらにヤバい。アンジー・ディッキンソンの心変わりというか心が無いというのか。カサヴェテスとロナルド・レーガンという俳優の枠をどこか逸脱したようなキャリアの両者が衝突しているのもヤバいというか、カサヴェテスという人は本当何なんだろうか。
というのが気になって(そして漠然とムルナウに匹敵する何かを見たくて)カサヴェテスの『オープニング・ナイト』を久々に見直す。こちらは最後に卓球の水谷みたいなボクダノヴィッチがなぜかラストカットに本人役で出てくる。ピーター・フォークはまだしも、ボクダノヴィッチを? ぶち壊し寸前というより、本当に打ち上げを始めようとしている感じ?というかラストは夫婦漫才というのがヤバい。夫婦漫才直前に口笛吹きながら(ぶっちゃけ今回は脇役のはずの)カサヴェテスがやってくるウザさ、そしてジーナ・ローランズから「あいつぶっ殺してやる」と言われる時点で、カサヴェテスの不敵さって本当に何なんだろうかと謎は深まる。こちらは儀式を始めそうで、始めない。ただカサヴェテスと個人のまじないは『ラブ・ストリームス』といい切り離せない問題かもしれない。

『ナナメのろうか』(監督:深田隆之)

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『ナナメのろうか』を見ながら、筋を、構成を、台詞の意味を、何かを追おうというのを避けたかった。タイトルも、なぜ(前作に続き)女性二人なのかも、モノクロなのかも考えたくなかった。その理由がどこからきたのかはわからない。ある程度は作家の意思によって映画が空中分解しようとしているのだとして、その揺らぎになるべく乗るように感じていたかった。
『ある惑星の散文』に続き、やはり地盤が傾いていないようで実は傾いているのか、ともかく本作もまた(海に? もう海は出てこないが)浮かんでいるような映画かもしれない。段ボールの底も抜けて、階段からあれやこれやが落ちてきて、話をひっくり返し「随分遊んじゃっ」て、でも底の抜ける瞬間そのものは映らない。それは画面外で起きている(その理由も考えたくない)。
女性が建物の周辺を走って、建物の周りは繋がっていることがわかる。「だるまさんが転んだ」を試みることで、彼女が永遠に相手に辿り着かないなんて絶対にありえないはずだと確かめる。女性二人は外界との繋がり方に応じて(それは運なのか)状況を左右され、孤島にいるわけでもないけれど、それが救いになるわけでもない。一人の女性のバストショットからポンと画が引いて、それでもフレームは二人の女性を収めずに、やはり同じ一人しか映っていない時に、映画は女性二人の間に広がる隔たりをさらに誰にもわからせるレベルをやや逸脱して、余白と外気を見出し、飛行機の音とともに映画が動き出すのを予感する。だが二人の女性は映画と共にどこへ行くのかと思いきや、空間に囚われるわけでもなく、広がりを想像させる風と光と闇らしきものに別々に包まれることになる。
『ある惑星の散文』の彼が帰ってこないアパートの一室にて、何かを我慢しきれないかのように、その一室に孤立しているかもしれない状況を拒み、外界との接続を(ネット上のスカイプもしくは脚本家としてのキャリアの見通しの不安定さに対して)必要とする。そのために音が聞こえてくる。だがこの音は外から聞こえてきたというより、幻聴は言い過ぎなら、やはり演出されたものだ。はたして『ある惑星の散文』の外から聞こえる音が一人の女性の置いていかれる心情とリンクしていて、『ナナメのろうか』はそんなことを聞きたくないし話したくもないんだという心情があるかのように、掃除機をかける音がして、段ボールの底が抜けて、廃品回収の声が聞こえて、蜜柑の話題がやってきたのかはわからないし、余計な憶測かもしれない。
ところで深田隆之氏の取り組んでいた『私のための風景映画』というフレーズは何だったのか。その答えが『ナナメのろうか』という(奇妙な?微妙な?)タイトルの映画にあるわけではない。私のための風景も映画もありえないかもしれないが「風景映画」ならあるのだろうか。あの微妙な距離、あの時間、あのボールの移動、あの重力、その存在しないはずの「私のための」風景映画を求めているが、どうも『私のための風景映画』になるには、音を、風を、闇を呼び寄せる必要がある(そのための最大の儀式がピストルなのか?)。本当にこの場に聞こえているかわからない音による環境下で「私」が映画の中に二人(三人?四人?もっと?)いる。映画が引き裂かれ、それぞれの人物が「私」として家の中をさまよう感覚だが、その「私」と見ている私もまた別である。この映画を、ここに出てくる姉妹のことを理解できた気に、この映画だけでなってはいけないという心情と出会うことになり、その衝突は別に誰のためにあるわけでもない。だがこの映画は『私のための風景映画』ではなく『ナナメのろうか』だった。傾いていないようで傾いているのかわからない斜面の存在しない廊下の映画だ。

 

9月10日より東京・ポレポレ東中野にて公開。

自宅にて青山真治監督『シェイディー・グローヴ』を見直す。なんとなく「青山作品で一番好きなのは?」と聞かれて本作を答えた思い出もあるけれど、容易に好きと言ってはいけない暗さというか、掴みどころのなさというか……主人公が宣伝会社に辞表を出す、映画美学校が試写室として出てくる、というのが映画ファンらしさとは別種の時代の変化みたいなものを記録しているのか? 同年、『大いなる幻影』の映画美学校があくまで、かつての銀行になるなら、『シェイディー・グローヴ』の映画美学校が試写会場というのは事実そのままというか。桶川ストーカー殺人事件が翌年? 鎮西監督の(一時引退状態前最後の映画?)『ザ・ストーカー』が97年で、別にストーカーというのが冬彦さんとかドラマとか、別に時代に区切られるのかは何とも言えない。そして携帯電話をかつて森のあった場所へ向ける行為に見られる写真との近さ。なぜ携帯電話を持ち上げるのか、今となっては電波状況も何も変わってしまって、写真でも撮ろうとしてるようにしか見えないし、それとも録音?だとしてもこの携帯電話の使い方は謎めいたものになって古びるどころか時代を超えている。自動車と電話というのは最近読み始めた中上健次文学講義にも早速出てきたが、しかし電話も自動車もグリフィスの時代からあるものといわれたら、それまでだが。

山本嘉次郎特集にて『孫悟空』(40年)。いろいろ円谷英二の見せ場ありだが、前後編とわかれるだけあって長いから疲れる。なんか最後がよくわからない前編の三益愛子に驚く。オペラガスを吸ってからの一幕が馬鹿々々しくて笑った。観音様の花井蘭子(もっと見たかった)と、三カットくらいしか出ないけどキラキラ輝く若々しい御姫様の高峰秀子(なんと鼠の着ぐるみに化かされているのだがレンズを覗くと本来の彼女になるのだ)を見れてよかった。
藤十郎の戀』(38年)芸道物。序盤は字幕がインサートされて記録映画風に始まって、終盤になると思い切りソ連映画風のモンタージュを入れたりする。これまた題材は日本的だが映画はいかにもハイブリッドというか。上演場面が非常に興味深い記録になっていて、エノケンの映画も彼らの芸を記録していたと言えなくもないような(ちょっと違うか)。入江たか子長谷川一夫の夜の出来事はさすがに緊張感あるが、それを再現しようとするくだりが、まあ、普通だなあと思ってしまった。『ドライブ・マイ・カー』とか『エルヴィス』とか同時上映したらいいんじゃないだろうか、など。

アテネ・フランセにてムルナウ『最後の人』(24)。
以前見たより、あのスポットライトの後のエピローグでの「作者による」笑うしかない救済に見ていて感動するというのが、倒錯しているようで、やはり感動してしまう。また別のエンディングが存在するというのなら映画が一人の作者によるものではない商品という有様をこれ以上なく突きつける(映画のタイトル自体も『最後の笑い』かもしれなかったわけで)。また、あのコートを瞬く間に盗んで飛び出して帰る時に既に映画でしかできないことはやられているのかもしれないが。ウィキ見たら同年にキートン『探偵学入門』、翌年にチャップリン『黄金狂時代』、四年後にブレヒト三文オペラ』初演。ジェリー・ルイス『底抜け便利屋小僧』のスタアに出世したルイスの一人二役のポスター貼り(またはそれを転用した『TAKESHI'S』エレベーター前での北野武ビートたけしの刺殺、または『アウトレイジ』一作目での中野英雄に襲われるラスト)の切り返しが、終盤のトイレでの一幕からいただいたんじゃないかと気づく。まあ、演出上の偶然だとして、この隣り合う横同士の切り返しが上下の関係に対して、より何らかの(作者の?)采配を意識させる。ともかく映画に感動するために自分が抱えているだろう逡巡みたいなものを経て、なお作り物の結末に感動できるという。その『タルチュフ』の劇中劇といい映画の構造に対する視線からムルナウジェリー・ルイス、カサヴェテス(また違った角度からヤニングスに似てるウェルズや、モンテイロなど)と自作自演の作家にも影響を与えているのか。初見では『サンライズ』とともに、なんだ、この展開は、と実はついていけなかったが。

バーバラ・ローデン『ワンダ』、ロバート・ダウニー『パトニー・スウォープ』のどちらも見逃さずに済んだ。なんか二本立てやりそうな組み合わせだから将来的には損しているように思われそうだが、ともかく見た。昨年思いっきり置いてきぼりを喰らったロバート・ダウニーの映画だが、『パトニー・スウォープ』のほうがもう少し笑ったが、やはり初めてマルクス兄弟を見たときの「これを面白がれない自分は映画をもう見ないほうがいいかもしれない」というショックがやや蘇った。マルクス兄弟を好きなワイズマンの映画も大学時代は本当にどうしても寝てしまい、実は何がいいのかさっぱりだった。でも僕は慎重な人間だから絶対にそんなことは思わないし言わなかった。今なら面白がれる。どうせ自分はかつての人たちより感性が死んでいるから、こうして遠回りしなければいけない。感性が死んでいる上に論理的な思考もできず、ただ穏やかに時間が過ぎてほしい。

ラドゥ・ジューデ『若き詩人の心の傷跡』。ルーマニアユダヤ人作家Max  Blecherのサナトリウムでの日々についての映画。最後の墓を見て、彼の生没年が山中貞雄と同年と気づく。やはり本作でも戦争・ファシズムユダヤ人差別・論争とも喧騒ともつかないやり取りとともに窓から射す陽の変化が記録され、海、雪が見える。一方では砂浜を掘った先に沈められた棺が膿のごとく濁った液に浸される。そして配信で見てきたラドゥ・ジューデの映画の中では初めて恋愛関係にある若い男女が映され(『アンラッキー・セックス』もまた性愛の話かもしれないが)特に終盤の男女の衣装の色彩の変化に感動する。彼自身によるデッサンのアップから始まり、ナイフに刺されたパンの切断面から血が溢れ落ちている。今となっては症状を悪化させたとしか見えないギプスによる胸部の固定が痛々しい。ほぼ途中から車輪つきのベッドで寝たきりになって移動するのが、どこかベッドに眠りについたまま浮遊する感覚も連想させるが、時には院内で渋滞を引き起こし、またベッドのように馬車の荷台に乗せてもらい、病院には行かなくなった元患者の看護婦ソランジュの家まで逢いに行く。彼女の足は後遺症から金具で固定され、クローネンバーグの『クラッシュ』ほど煽情的に寄るわけではないが、病床でのセックスにて女の足のちらつく様と、男のギプスの「刺さる」様には卑猥さがある。ギプスに固定された肉体からは首が回らず視野が限られるために、鏡がベッドにセットされているだけでなく、たびたび画面中に配置されることになる。だがその鏡も窓から射す陽の美しさとは異なり、おそらく役立っているかはわからない。ただ鏡は絵画の構図に収まる時のように観客をわずかに見つめ返しているようだが。後半ソランジュとは別に、もう一人のベッドに固定された(そして機能しきらない鏡が装着された)女性の患者との室内でのひととき(彼は終盤に力尽きるまで話すことをやめない)と、さらに痛々しく滑稽だが、どこか意外とあっさりした性交(未遂?)があって、官能的な魅力(「いつか続きを」)がむしろ寝たきりの彼女のほうに感じられる。

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仕事により目当てのムルナウも講演もどれも外れることになり、自宅にて今回上映されない『都会の女』を見る。商売に出掛けた先で金にはならない代償を得て帰り故郷に波紋を呼ぶというムルナウの少なくとも『ノスフェラトゥ』と変わらぬテーマで、しかし方角は逆というか。ただそのテーマがはっきりと、限られたカットしかない都市部の街路にて、一つのレールに引かれた2回ほどの移動ショットだけで、一度目は小麦の値の下落を、二度目は駅から引き返してきた彼女がいずれ彼と再会できるだろうという時を、周囲のそんなことなど知らぬ雑踏とともに見せる。その2回の移動ショットは一度目は新聞を見る男を置いて離れていき、二度目は失意の間に合わなかった(と思い込んでいる)女を追って動く。彼と彼女の企みとは別に映画は移動しているという視線が占いとセットである。それは駅前に射す聖なる光としか言いようのない光線の存在も近い(ラングのショットはカッコいいが、これほど映画の繋がりに繊細な時はないかもしれない)。一方で息子を待つ父の、これまた『ノスフェラトゥ』の妻(彼女の病にカサヴェテスは『こわれゆく女』で意識しているはず)と対になるかもしれない(母が息子の帰還にあそこまで涙するのは、この嵐を感じ取っているからに違いない)愛情をもって待っていたはずが、彼は息子の手紙を読み、結婚をすぐに承諾するcity girlがgood girlなわけがない、息子は騙されているという。偏見ではあっても、そこに彼を愚かだと観客に意識させるわけではない(彼の威厳は失われていない)。ムルナウと監督としての活動時期は近く(同時に監督としてはムルナウと同じく決して長くはない命の)、映画に妖しげな誘惑者を出す点も通じる(というのはモンテイロをめぐるあれこれのおかげで気づいた)シュトロハイムなら詐欺師に違いないが、誰もシュトロハイムほどのリアリストにはなれないし、偏執狂な繋ぎもできないし、やはりムルナウはそうせず(それでもムルナウの映画の繋ぎは『ノスフェラトゥ』を全編繰り返し見返さなくてはと思うし、これはロメロの『ナイト〜』の慎重な自動車の繋ぎからテーマに飛躍して彼のキャリアを貫くゾンビの広まりや、ある意味では『スペース・ヴァンパイア』の怒涛の展開など限られた映画しか追い付けていないと思うけどスペバンは何となくラング側に近い気はするが)、映画は誘惑という行為だけで物事を運ぶわけではないと知らせる。そして『サンライズ』の何もかもが祝福している気がするという(これを『ベイブ都会へいく』に引用したのは正しい)凄さを思い出す列車の煙(これは駅員による人間同士のあくまで繋がりだが、いや、ペストの人知を超える脅威と同じく、やはり列車自体が祝福してると感じる)、初めて麦畑を駆ける新婚夫婦の幸福な意味で夫婦の枠に収まらない最も幸せな男女という、今更自分が言う必要もない、なんか自宅で見るだけで勿体無い映画史上最も愛しい移動撮影。そしていろいろあってラストには「クレメンタインというのは美しい名前です」に匹敵する「父さん。紹介するよ、ケイトだ」。まだ嵐の前ぶれではあっても。

徳がなく、朝からフォード2本売り切れにより間に合わなかった。先週はペキンパー二本立て@早稲田松竹は見れた。今更『ワイルドバンチ』の感想を書く気分になれないけれど、ロバート・ライアン側の面々なんか初見では頭悪くてクソみたいなゴロツキくらいに識別する気もなかったのが、こういう一本の映画の中では死ぬような人たちと繰り返し付き合ううちに映画の中でしかできないような関係が生まれるんだろうなと改めて。ライアンから「こんな奴らと」「お前らなんかよりパイク側に」とか言われる度に見せる顔がなんかたまらないものに見えてくるから不思議だ。『砂漠の流れ者』は全身像から胸の谷間まで眩い!とエロ目線といえばそれまでだが、本当に眩い。あとジェイソン・ロバーツのダンスも!『特出しヒモ天国』のあの念仏とストリップ小屋が隣り合った環境にこうした映画の世界がかなり近い。

フォードに敗れてユーロに降り『裸足で鳴らしてみせろ』を見る。なんかボンヤリ話が進むなあというところもあるが(似た題材なら『ワンダラー』のほうが好きか)、着地点はやりたいこと全開で、まあ、そりゃ泣かせる。知らなかったから友人2名もクレジットで見ると思わずビックリ。僕が映画見逃したり、ぼんやりしている間にあくせくみんな働いているのだった。