カール・ドライヤー『奇跡』@早稲田松竹

カール・ドライヤー『奇跡』@早稲田松竹
父親同士のやり取りにて、娘の側の親が席の反対側へ移った時に、相手を呪う態度に変化する。
医師が去ってから窓の外を父子が見る時に、窓の外側から彼らの顔を撮るよう切り返す時、両者の位置が入れ替わる。
こうした立ち位置の転換がドライヤーの映画に、かなり瞬時に、事態を変化させているというのはわかりやすい。
それは一人ではある意味起こらない事態かもしれない。二人いるから、その立場が変更されることもありうる。
「神と私」という状態よりも、「一人で祈る」と息子と離れ父が歩き出す時に、牛の鳴き声が被さる、何らかの(ブニュエルというよりオリヴェイラ的な?)滑稽さというか、侮辱への、背信行為への怒り?というよりも、もっと単純な言い方がありそうだが。そこへヨハンネスがインしてくると笑ってしまえるかもしれない。だが笑えない。そこに緊張感があるから? それとも本当は笑っていいのか?
何より死者を目覚めさせるという行為。そこでの娘がわざわざインしてきて(「子供だから何も知らない」と祖父が言うところも、たしかに愚かな者へ向ける視線を感じる)、ドキュメンタリーで見たようなバストショットを挟む。彼女の笑みの入れ方が、本当に、ここ最近まだやってるのは『アネット』くらいじゃないか?という、これが本当に許されるのか?という。あまりの素朴さ? 現実をよくするための発見? そして事が終わると、わざわざ御役御免とばかりに、保母に連れられ、画面から出ていくのもおかしいといえば、かなりおかしい。医者が牧師を抑える時の妙な感動。同時に、彼女が死んでしまう前の、医者と牧師の座る位置がシンメトリーに定まった時の、かえって不安を呼ぶ謎(これこそオリヴェイラ的なのか?)。「御言葉」という題だが、「奇跡」というよりも、一人死んで事態が良くなるという状態に対する、そこで死者に死んでいるのをやめて蘇ってもらうという、信仰への揺さぶりというか、単純に信じられないことが起きる映画。同時に、自分たちは何も信じていないかもしれないという揺さぶり。「信仰が足りない」ことへの怒り? というものでもない。
ドライヤーは信じていたことが崩れるというか、何も信じていないかもしれない恐怖というか、どういえばいいのか。
そもそも信仰の問題をかなりいい加減にこちらが捉えていても、この動揺は変わりないと思う。それくらいここに出ている人たちが死者の復活の前に至る、あるアンバランスな状態は危うい。信仰心の足りない(というのは何なのか?)旦那は彼女の棺に蓋をすることに我慢ができないが、それでも彼女を復活させようという時に一度は妨げようとする。だがこの動揺は何を信じているのか、信じていないのか、もはや何とも言えない。
蘇生してから旦那の首元から顎あたりへの接吻が、このまま肉を噛み切るんじゃないかと前に見たときも妄想したのを思い出したが、それは吸血鬼というよりもゾンビの行動なんだが、やはり一度死んだ体は口元に水より何より血の通った生きているものの感触を求めて吸い付きたくなるんだろうか(『裁かるるジャンヌ』には火刑の間際に、ファルコネッティと乳房に吸い付く赤子とのカットバックがあったが)。つまりは冒涜スレスレの行為? だがそんなことで「恐ろしい」という言葉で済ませられない。
笑いと怒り? 果たして本当に笑っていいのか。果たして本当に怒りなのか。
流産し四つに裂かれて死んだ弟は生き返らない。肉体さえあれば、という問題でもない。
「時が腐っている」という言葉は凄い。ここでは時が腐っているから何もできない、とは。ただ人が死んで、それを受け入れる、不在を受け入れる腐った時間。
『ゾンビ』に死者の不在はなく、エレベーターをくるっと引き返すように、ただ死体も動く世になれば不在はないのか? 一方にゾンビ不在のロメロでの妙な空虚さ、いや、寂しさ、孤独は何なのか。充実は、自分が何かせざるをえないという「必死さ」というものは死者が蘇らない限りない?