コズミック出版にてオットー・プレミンジャー『兵士の家』。リヴェット見たならプレミンジャーも見ないとね的な。プレミンジャーにしては「これ以上は見たくない!」ではなく、いつまでも見ていたい系の映画。いや、僕がボンヤリ、いつもの嫌な感じをスルーしたのかもしれないし、単に国策的なやつかもしれないが。でも、これは愛おしい映画。

シネマヴェーラにて大和屋竺若松孝二金瓶梅』をシネマヴェーラにて。なんとなく後回しにしていたのを後悔、この組み合わせというか、やはり大和屋竺にハズレなしだった。褪色しようが面白いものは面白い。助監督・沖島勲。ふかしいも。

若松孝二カーマスートラより 性教育書 愛のテクニック』一切期待しないで、これはナメていたが、思ったより面白い。チラシに『PFLP』の製作資金になるくらい儲かったらしいが(しかし儲かるピンク映画というのは、寂しい男達が喜び勇んで劇場に殺到したんだろうか?)こちらはこちらで『楽しい知識』あたりのゴダール風もしくはブレヒト的(教育劇)に見えなくもないが、でもエロ映画はこんなものか判別としない。あの地味な足立正生初期監督作より洒落てて上手い(スタッフがなんだかんだ良いのか)。なんといっても終盤の実録展開、死屍累々の光景への「あらあら大変」という異化効果なのか軽薄なだけなのか掴み難いナレーションとか、あまりに乱暴な女性の扱いについて、彼女の顔のアップに分析しているようで、ただ軽薄に「あらあら大変」なナレーションをかぶせたりとか、いろいろ話は学べない。

 

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『ガラオールの最後の冒険』船のマストから海に赤ん坊が落ちるとか、嘘とわかっていてもヒヤヒヤするところと、本当に危ないことをやっている点と(そもそも本当はどれぐらいの高さか、下にクッションがあるのか関係なく、マストへの赤ん坊の置き方が怖い)、あとは海に男女が落ちてから不必要に長い時間、漂っているのがヤバい。肝心な場面が失われているのかサーカスの転落事故後がどうなったのか謎だが。もちろん単に危ないだけでなく、肝心の曲芸の投げたボールの着地点はそんな感じかとか、屋根の上での捕り物の下では寝室の夫婦が巻き込まれていたりとか、写真が動き出したり、レスリング試合での合成にしても、非常に豊かな作り物を見ている楽しさ美しさがあって、今ではありえない優雅さがある。もっとサイレント期のイタリア映画は見たいし勉強しなくてはとは思うのだが。

クローネンバーグ新作、まさに「映画のはらわた」を見せてやるということなのか、『白い肌の異常な夜』のことがよぎって、一時期『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の辺りで聞いたクローネンバーグのイーストウッドへの歪んだ愛が、枯れつつあるヴィゴ・モーテンセンの肉体に向けられるんだろうかとか、あと『フレンチ・ディスパッチ』に続きレア・セドゥの身体はもうルッキズムエクスプロイテーションも何も開き直らんばかりに、なんか欲望をすべて跳ね返すばかりの肉体を目指してるのか、まあ、わからないが凄いんだろうという予感。見てないので下衆の勘繰りに過ぎないが。

 

ジョン・ランディス『ステューピッド おばかっち地球防衛大作戦』度を越して酷い映画らしいという感想が気になってVHSで見る。信じられないくらい馬鹿な一家が出てきて、驚くほど一切の下品なネタがない。ある意味では渋谷のリヴェットに近い? たしかに笑えないが、わりと最後まで見れる。狂ってるとか、異様というわけでもなく、ただ下手ではない映画というのが、かえって妙な困惑が続く。こんな映画は見たことないかもしれない。CGの犬猫との共演が非常にチャーミングで癒やされる。

国アカにて神龍寺コレクション。だが問題作の教育勅語謹解映画の時間に途中でウトウトしてしまい、肝心な場面を見落としたらしく悔しい。なぜか海水浴から始まって、無人の海辺をパンした後に、スタンフォードのペナントが出てくるなど予想できなかった。子役の娘が妙にいい顔をしている。『利根川情話 枯すゝき』は歌唱場面の間、フィックスのほぼ動きのない画だが、遠景を舟が一艘ゆっくりと横切っていったり、手前などの草木が風に揺れていたり、奇妙だが悪くなかった。舟を見送るカットも印象に残った。最後の『実写 霞ヶ浦航空隊』はボンヤリ空を飛ぶ飛行機を眺める。「爆撃訓練」の字が出た後は現存していず会場が真っ暗になったのが今日のハイライトだった。

コズミック出版のDVDからグレゴリー・ラトフ『女の戦い』。ナチス占領下のパリにて500人以上の連合国側パイロットを脱出させた地下組織の女二人の物語。グレゴリー・ラトフはウェルズの『黒魔術』だけ見て、面白かったかどうかさえ覚えていない。撮影リー・ガームス、何より主演のコンスタンス・ベネットが製作を兼ねていることに驚く。アラフォー女性二人の友情を軸にしたパルチザン映画は初めて見たが、それだけでグッとくるものがある。ウィリアム・A・ウェルマン天晴れウォング』を見る。凄く面白かったが、見終わってからTwitterを検索すると、だいたい自分程度が書きそうな感想は書きつくされていたから、感想を書く気が失せてしまった。銃はおそらく一度も発泡されず(記憶違いかも)意外と景気よく振り降ろされないハチェット(だからこそ効果がある)。冒頭の抗争での長回しをぶった切るドーンと出る旗とか、アメリカ人の詐欺野郎と目線を全然つなげないどころか徹底して逆向きの切り返しとか(アジア人は何を見ているか考えてるかわからないってこと?)、絶対に言ってはいけなさそうなラスト(その画が繋がってたんだ!という衝撃)。また戻ってくると凄みをきかせながら階段を降りていく緊張感もあるが、もう二度とハチェットは飛ばない。既に刺さっていたのだ。この唐突な幕切れ。コンプトン・ベネット『第七のヴェール』。見た後にジュネス企画を経てアマプラ入りしているのを知る。何となくジュネス企画のよりも綺麗だった気はする。何でもあるような、ないような。とにかく唯一の理解者なのか単なる精神的DVクソ野郎なのか、このジェイムズ・メイソンと結ばれるのは、いくらなんでもない!けどジェイムズ・メイソンなら許せちゃうというか泣かせるんだなあ、何でだろ、だめかな? 今なら絶対に『ベッドとソファ』というか彼女を自立させるだろうが、これはこれで精神科医と共に彼女を正気とも狂気ともつかぬ側へ遠く見送るような結末。とにかく期待通りのジェイムズ・メイソンが見れて満足。

佐向大脚本・監督『夜を走る』を見る。撮影・渡邉寿岳の映画を割と大きなスクリーンで見れたのは初めてかも、と思いつつ振り返ると『いさなとり』は当時のフィルセンだし、新文芸坐の『王国』は見逃したが。アテネ・フランセペーター・ネストラー『外国人1 船と大砲』は見逃したが、そこに渡邉さんと赤坂さんとか話していて何だか羨ましかった記憶がある。そこに近いものが『夜を走る』のスクラップ工場の撮影にあったかもしれないが、あの火花を手持ちで撮影しているだけで興奮した。渡邉寿岳さんの画に見かける木々もトンネルも、いろいろ出てきた。
何が何だかという話が、そもそも勝手に一夜だけの話かと思いきや、嫌になるほど夜と昼を行き来する。つながらないものになりそうで、この話には相応しいスタイルだったに違いないという気にさせる。かつて渡邉さんがカメラマンの存在を意識するきっかけになったと名前をあげた清順の大正三部作を並べるわけではないが、あの脚本を破壊しているのか、決してわけがわからないわけでもない感じ。いや、でも別に『夜を走る』は脚本通りというか、監督が脚本を兼ねているわけだからおかしくもないはずだが。後半の怪しい団体とか、話自体にのれないところはあって、ラストの『ミスティック・リバー』の天井がよぎる穴へ向かう(あれは覗き穴で、この声はそこから聞こえるのか?)曖昧さもあれでいいのかわからないが、相乗して、傑作でも何でもないが、これはこれで、うん、という感じになる。渡邉寿岳さんのインタビューから引っ張るなら、なぜ踊るのか、というのを理由付けはしないが、おかしなことではなく見れる。ダンス映画なんだろうかわからないが、『ウエストサイドストーリー』と同じく、踊れるらしい人を、踊りを撮れるかもしれないカメラマンが撮る。その確信があるかわからない危なっかしさに価値がある。雲天をバックに影になりそうな人たちや、どうしても『王国』のことがよぎるけれど終盤を除き家庭人ではない足立智充、飲みを長引かせる⽟置玲央、車中泊してるだけで何だか若干許せなくもない上司、油断できない存在らしい女の子や、樋口泰人にパッと見似てるが全然違う社長とか、やっぱり『ソラからジェシカ』のヒロインだった嬢とか、もう怖いのかそうでもないのか判別つかない松重豊とか、生々しいともいえないが(彼らは全員マスクをつけるのをワクチンを打ったのかやめている)、いいんだか悪いんだかわからないが、おかしくもない。とにもかくにも撮影・渡邉寿岳の映画は必見。そこにどう転んでも限りなく微妙な映画しか作れないかもしれない日本の小規模な映画でも食うか食われるかの賭けがある。

サム・ライミドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』。よく前提のわからない魔法使い同士のバトルに『死霊のはらわた』や『ギフト』や(あくまで自作としての)『スパイダーマン』の空気が紛れ込んでいるという意味では『オズの魔法使い』でやってくれたことの延長だが、『スパイダーマン3』といい、2時間ちょっとの話にぶち込むのはさすがだと思う。エリザベス・オルセンの哀しみも伝わってくる。披露宴からあっさり始まるバトルを見送るレイチェル・マクアダムスがよかった。これほど自作に寄せたクライマックスに何だかんだ見てる側もブチ上がるタイプの監督というのも今後育つんだろうか。なんとなく予告だけ見て仲間だと思っていた相手があっさり悪役とわかり、過去作では格闘してきた悪を決死の覚悟で味方に回す。エンドクレジット後も必見。カメラを傾けた恐怖演出によって本当に足元のゆらぐ不安を呼べるのはジョー・ダンテサム・ライミ以外だと現役では誰がいるか。でも『スペル』の豪快な鼻血ブーを思い出すと、今回のゲロが見えないのは物足りなかったか。いや、別にゲロはみたくないが。あとは『鳥』経由のヒビ割れが『シンプルプラン』どころか『死霊のはらわた』まで遡ってライミにとっての一貫した主題かもしれないとは思った。息子の見るテレビ番組も非常に心かき乱される魅力がある。

国立映画アーカイブ羽田澄子を忘れていて見逃す。悔しい。同タイトルの映像作品、シルヴィア・シェーデルバウアー『元始、女性は太陽であった』が上映されるイベントを見にドイツ文化センターへ。『ポーラX』を結局再見しそびれる。
ケン・ジェイコブス流のフリッカーによりフッテージや写真が文字通り立ち上がろうとしていた。
一方の小田香『カラオケ喫茶ボサ』は8ミリ、喫茶内のプロジェクター、アクリル板と反射、出演したママと常連客らの顔の皺という、距離感の狂う画に魅力がある。映画を見ただけではママさんが実際に小田香の母であることはわからず、インタビューの質問が「60年後についてどう思われますか」だったとはわからない点が抜きん出ている面でもあり、危うさなのかもしれない。なぜ常連客からウクライナの話を聞くのか、なぜ彼女たちである必要があったのかはわからない。ただ今、目の前にいて、今ウクライナで起きていることを身近に感じられてしまうのは、一種感傷的かもしれないが、そこに没入することを今回も試みる。小田香にとっての鉱もセノーテも、どれほどの必然性がある道程なのかは小田香のモノローグを必要とするかもしれないが、小田香はやはり映像とモノローグが同機せず引き裂かれる。それはゼロ距離というほどの映像の近さといえばいいのか(河瀬直美が何かに触れようと繰り返すのに近いと言っていいのか、それは慎重にならなければいけないが、『おもひでぽろぽろ』のヒロインに託された危うさでもある)。比べるべきかわからないが、これは小森はるか氏とは真逆の特性かもしれない。小森はるかの映画に出てくるミニマルな世界を作る人物たちの理由というか衝動は、ウクライナと喫茶を結びつける小田香の映画には少なくとも映されない。舞台となった喫茶は緊急事態宣言下により撮影日だけ久々に開店したという。そこの人たちからは「爆発するように言葉が出てきた」らしく、その爆発は記録されていた。

清水宏『明日は日本晴れ』この題がすべてを物語っている時点で、なんとも戦後の日本映画というか。バスの運転手を正面に混んだ車内を撮ったフィックスから、いつも以上に狭苦しく、それでもミラーに映るサングラスの女性は生々しく近そうで、実は浅からぬ縁のある運転手の側からは遠く奥の後部座席にいることがわかる。何もかも戦前からの清水宏の映画の人物たちでいながら、戦争の影を宿した人物たちとして集まり、そこには『按摩と女』の日守新一も含まれる。上映前の研究員の方の解説によれば、御庄正一は実際に戦中に片足を失った人物でもあり、彼が同様の役で出ていた『蜂の巣の子供たち』の次作ということが印象づけられ、さらに戦災孤児も潜り込んでいる(彼の渡した煙草が後半、実に素晴らしく機能する)。製作の松本常保の経営していた米兵向けキャバレーの踊子たちではないかという娘たちの後姿と大した振り付けもなさそうなアンニュイな仕草を捉えた後景(前景での煙草の受け渡しがまたいいのだが)も忘れられない。バスの故障というトラブルにより清水宏らしく横道へ逸れた時間を、忘れたくても忘れられない過去を語り合う時として費やすことになる(知人からの指摘でようやく気づいたが、本作でのバスは誰も目的地へ運ぶことなく、乗客それぞれが次のバスか、徒歩か、移動手段を択ばされることになるのが『有りがたうさん』との最大の違いであり、それが戦前の作品への批判的な変化なのか、後悔なのか。ものすごく大事な違いだった)。めくらの日守新一と、聾で唖の老人の組み合わせが、あくまで脇道のようで何故か泣かせる並びに収まっていき、終盤の不意の無音に技術的な限界を超えた効果を感じてハッとさせられる。何もかも清水宏らしく、いつまでも過ごしていたい朗らかさと、動揺するしかない不安定さが一体化した傑作。

稲垣浩監督・伊丹万作脚本『俺の用心棒』とサム・ライミドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』を続けて見る。『俺の用心棒』の製作背景を聞いたら、伊丹万作の脚本ふくめマルチバースな?世界が繰り広げられていて驚く。それ以前にファストな感じにコマが飛びまくっては欠落部分もあるのと、睡眠不足と食後の眠気が襲って意識も飛んで最初は話を追うのを諦めた。不勉強のため稲垣浩に疎いが、意識があった範囲では、かなりシャレたユーモアとセンスのある映画で面白かった。特に将棋盤でのスローモーションが凄かった。猫も活躍。走って逃げるシーンを移動撮影ではなくフィックスにしたかったという話が面白かったが、どことなく洋風な酒場でのカメラの動かし方とか良かった気がする(うろ覚えだが)。終盤の主観ショットでの移動が清水宏のバスと被っていた。

早稲田松竹にて高畑勲二本立て。つい数年前に初めてまともに見たくらいの恥ずかしい野郎が言っても説得力はないが『平成狸合戦ぽんぽこ』、狸を轢き殺して、自分がタヌキになったつもりで生きている自分含めた人間は全員この映画を見て下唇を噛みながら泣いて懺悔するしかないのか。『ぽんぽこ』と違って、そこまで好きでなかった(というよりラストが何となく怖い)『おもひでぽろぽろ』も見直して、当然のように感動する。現在パートの「故郷」が単にほうれい線の目立つアニメとしてではなくて、「百姓の音楽」にあわせて描かれる紅花摘みの光景が平然と国境を越えて、何もかも日本の現実を映すだけではありえないというのに圧倒される。こうした二本の映画での実写では再現の困難なレベルへの挑戦と、『柳川堀割物語』を撮ることでは、どちらの方がリスクが大きいのかわからない。『ひょっこりひょうたん島』の歌の効果も改めて見て、「中山千夏」の名前とともに素晴らしい使い方だと思う。夏休みの熱海の思い出から始まって、最後の思い出は夏休み前に遡って、あっさり転校した「おまえとなんか握手してやんない」クラスメイトと会った記憶が、他のクラスの出来事とは切り離されたイメージになる(恩地日出夫『新宿バス放火事件』を見てから、こうした記憶の出てくる映画は気になる)。ギバちゃんが話さなかったことで言うなら、結果クラスで唯一、彼の手に触れられなかったということも大きい。パイナップルの味、スケベ横丁、好きな天気は曇り空(今更ながら本当に美しい飛行シーンだと思う)、友人の「セイリ」、父親からの平手打ち、分数の割り算、紅花に混じる農家の娘の血(こっそりゴム手袋を外して摘んで、その痛みを体験してみる)、学芸会のカラス、芸能界、ギバちゃんの手、さらに雨上がりの夜空に不意に名前の出る「狸」とともに、それらは「おもひで」か現在か関係なく、向こう側から触れるために、もしくは触れられない観念としてやってくる。熱海でのぼせた記憶から、要所要所の「赤」が本作では女性の身体とますます切り離せないのが危うい。

神戸ではマルクス兄弟だが、東京のイタリア映画祭にてマルコ・ベロッキオマルクスは待ってくれる』。ベロッキオの声はデカい。蓮實重彦青山真治追悼にも出てきたオムニバス『セレブレートシネマ』のベロッキオ篇が、ベロッキオが赤ん坊を煽って演出するだけなのが興味深かったけれど、本作でもベロッキオの声のデカさが伝わった。同じ日に産まれた兄弟の自死について、彼自身含めた家族が語る。ベロッキオの家庭は穏やかな場所だったかわからないが、やはり波風を立てる。兄弟の死について振り返る話者たちを繋げる時も、単なる証言を並べたのではなく、そこに50年以上の時間を経てた各々の現在の老いて震えた肉体や声を記録しながら、それら目線の繋がらない人々の切り返しでもって一つの映画固有の時間を作り上げていき、そこにサスペンスもある。父の死をめぐって食い違う証言が「どちらも正しい」とはっきり言葉にされるのも彼の作品らしい。牧師や精神分析とベロッキオ自身の切り返しもあり、それが告解や精神分析的かもしれないが、そのものではないのが重要か? 「告解」の後には「神様なんかいらない、ただ家族に会いたい」という話が続き、牧師による解釈は相対化される。今回のフッテージムッソリーニの演説から、ホームムービーにアルバム、意外にも自作も含まれるが、それらが単なるインタビューの合間に挟まれる情報としてではなく、ベロッキオ自身の喋る姿を撮るとき同様に、切り返しになっているのが流石というか。たびたび話者が両手の指を組む(セザンヌの絵の人物がやる)のも印象に残るが、ベロッキオの構築力?といえばいいのか。次作は『夜よ、こんにちは』と同じ題材らしいが、自作に対する切り返しという面もあるのか。また漠然とだが森崎東が似て非なる存在としてよぎる。

ミア・ハンセン=ラブ『ベルイマン島にて』。フランス映画のようで、ほぼ英語とスウェーデン語。ベルイマン?バーグマン? 詳しくないからベルイマンの最後の妻がイングリッドという名とは知らず、イングリッド・バーグマンの(フォンがあった?)名が出てきて驚く。そのせいか前半の夫妻別れて(ベルイマン・サファリ)ベルイマン島巡りにはむしろ『イタリア旅行』も連想したが(ティム・ロスのノートには『めまい』の名くらいは確認できた)、ロメールとかアレンとか、その辺の流れの事はともかく、謎のメガネ氏の登場とか、いろいろあれこれ変なこともやってて気持ちのいい映画だった。ティム・ロスの映画が拍手で迎えられているだけでなんかおかしい。ミア・ワシコウスカも映画の調子を変えててよかった。

昨晩こだまさんのおかげで思い出し、早起きして武田一成『お母さんのつうしんぼ』。朝から腕白な子たちの声を見聞きするのは疲れてしまうが、前田米造の撮る食卓の準備から、子供同士の喧嘩も母娘の喧嘩、母の職場の輪転機など見ていて楽しい。『カモン カモン』では録音マイクが出てくるが、武田一成だと『先生のつうしんぼ』の蚕に続いて、こちらも馬やメダカやカダヤシや蛍など動物たちが次々出てきて、ついにはロングショットの小学生の運動に結び付けられる。相米慎二鈴木卓爾の映画にも出てくるが、なぜか人から動物の鳴き声が聞こえるのがいい。前田吟江戸家猫八(クレジットで知る)の声が聞こえてくる授業参観のシーンが不思議と泣かせ、母子の和解では照れ隠しか猫の鳴き真似をする。冒頭の藤田弓子の七変化とか、子役の一人芝居とか、カットバックで見せる演出も面白い。

キリル・セレブレンニコフ『インフル病みのペトロフ家』見たが、ノーコメントというか……。このノーマスクゲホゲホ映画と、いろんな意味でマスク映画の『アンラッキーセックス 自己検閲版』を同じタイミングでかけてるのが、いかにもコロナ以後。『D.A.U.』も見てないし、見る気になれないし、荻野洋一さんはカサヴェテスを思い出したと書いていたが、『ドッグヴィル』じゃないかと嫌な予感しか……。そう言われたら『インフル〜』は『エピデミック』かもしれないが全然別物。『ドンバス』もこれからだが、しんどそうな映画が続く。ゲルマンとスコリモを足して水割りしたような映画? なんかリスキーさに欠けるあたりが『ジョン・ウィック』ぽいんだが、図書館でバトるからか?

『ニトラム』ごく一部から好評なため見たが、思ったよりは面白いが。自分でも、これを見て「思ったよりは面白い」とか「よくできている」くらいしか言う気になれないって、感情麻痺してるなあ、僕のほうが人殺し予備軍みたいじゃないか。映画をたくさん見ても味気ない知ったふうなことしか言う気になれないんだから僕はつまらない人ですね……。なかなか、『ジュリアン』のコリンの人物らしい雰囲気もなくはないし、あの格好で葬式に出してくれたら救われたのにとか、でもそうなるには浮いていたということか。ハリウッド帰りに何もそんなことをしなくても、なんてワイドショー見てるような感想だが。しかし売上欲しいからか、あんな免許ない人に銃を販売するような店のあり方が許されてしまう状況が何よりの引き金だな、という感想も最近ワイドショーを見ながら思うが。ジェニファー・ケントの名前があった。

高橋洋監督・監修『同志アナスタシア』をYoutubeで見る。こんなご時世だろうがお構いなし(だからこそ、か?)高橋洋の「ヒロシヴィッチ」はブレない。本作や『霊的ボリシェヴィキ』を『インフル病み〜』とか『D.A.U.』の監督とか見たらどう思うのか僕みたいな凡人には謎だが、単に大人のやり取りに終始するか。第四の壁をぶち破って観客と対峙するか、朝焼けの海辺に入るかという選択に森崎東の映画が宿り、それがスクリーンを介しての体験となるあたりに大和屋竺も避けられないが、そんな迷宮を相変わらずキノハウス地下一階から一歩も出ずに作り上げる。高橋洋の映画なら出来て当然驚きはないかもしれないが、これだって氏の脚本なしに引き継げる人はどこにもいないだろう。これぞ深淵か? 仰角のショットでパンしながら酒場らしい空間をでっちあげる。また今回も合成写真や日系人、死者の瞳というモチーフが監修クレジットの第一部から出てくる。

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『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督〈自己検閲〉版』

ラドゥ・ジューデ『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督〈自己検閲〉版』を見る。自己検閲≒金。しかし昨日思ったよりも悪酔いし、外が暑かったからか、寝不足が祟って嫌な眠気に襲われ何度か長い瞬きをしてしまう。
ある意味では同じ映画館で上映された『牛久』のことがよぎらなくもない。ここでの醜悪なアレコレは一応は許可なしにありえないことだが、第一部の光景は本当にゲリラなのかどうか。
肝心のホンバンはボカシどころか、ほぼ完全に黄色い画面に覆われて何も見えない。結果マスクを脱いだ女優の顔(つまりフェラチオ場面)もほぼ見えず、第三部の最もハラスメントにあたる集会での醜悪な上映も、ホンバンを映すタブレットが黄色の幕に隠され、マスクした女優を隣に、PTAの小太りなおじさんが興奮している姿がより滑稽にも、更にいやらしい羞恥プレイの想像を掻き立てることにもなるが、AKBとAVの国ニッポンの状況を反映しているのだから仕方ない。とはいえ、これが(小太り役者を使う点も通じる)アルベール・セラの『リベルテ』なら〈自己検閲〉など不可能だろうから、シレッとマスクで覆い尽くすラドゥ・ジューデは既に事態を見越していたかもしれない(彼が独裁政権下の検閲を知らないわけがないしチャウシェスクの名も勿論出てくるが、イスラム圏への不穏当な言及も〈自己検閲〉字幕にはある。また『愛のコリーダ』の日本での扱いも知っているんじゃないか)。
長回しは控えめだが、第一部の女優がただ歩くパンデミック下の街の夕陽の射す画を繋いでいく、自動車トラブルや罵声も相まって『ウイークエンド』のことがよぎって、これだけでも見れてよかった。単にコロナのタイミングだけでなく、微妙な光の変化が見れるかもしれない時間を選んでいる。第三部になって、日が暮れてライトが灯されての集会の半端な明るさや、二番目のエンディングに舞い落ちる木の葉も印象に残る。ところで第三部にて散々言及されるも声だけで姿を見せない子供達だが(二番目のエンディングに何者かの「娘」が出席していたとわかるが)、過激な性教育ともいえる『パート2』はいつか日本でもボカシなしで見れるのか。
パンフレットも何となく買いそびれた。