アイダ・ルピノ『強く、速く、美しい』まず母が主役?と知らず冒頭のナレーションから意外というか、爽快さみたいなものから程遠いラストを予感する。このタイミングだとどうしても『アネット』のことを連想する。アダム・ドライバー的な男は娘を連れて行ってしまう彼氏まで特に裁かれるわけでもなく、単純に父母の立場を入れ替えただけでは済まされない違いはあるが。ラストの男二人に挟まれて目を左右に動かす娘は深淵に落ちかけているのか?  壁打ちの音が母を苛立たせ、娘が「自分は壁を相手にできていたのだから人間には勝てる」といった話をする。一方で映画は観客には見える壁というか境目を挟んで人々を向き合わせる。ひまわりの花が視界の邪魔になることに変わりない。『ヒッチハイカー』といい、二人〜三人しかいない空間で事が進む危うさと、そんな車を乗り継ぎしていくような、ハンドルを自分が握っているのか、握らされているのかわからない不安は、映画が終わっても娘のその後に引き継がれるだろう。B級へ捧げられる最大の賛辞といえば「安い、早い、うまい」であり、たしかアレックス・コックスが言うには、インディペンデント映画においては実現しない三点であり、どれか一点を諦めなければいけないらしい。「アマチュアの規定には違反していない」と男に唆されて受け取る小切手を見て、母は「美しい」と呼ぶ。美しさは母娘の未来を指すのか? しかし小切手と紙幣ほど呪いの紙にしか見えないものはない。その頃、娘は鏡を前に声にはしないが「美しい」に陥りかける。物事を言葉や文章にする時「美しい」はなるべく避けるよう慎重になる、という話を複数の人から聞いた覚えがある。美こそ深淵なのか? そんなわかりやすい連想には慎重になるべきか。最も美しく見える病床の父をめぐる娘との出来事はラジオ中継まで感動はするが、それでも父の印象は美しさよりも「弱さ」だった。

ラドゥ・ジューデ『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督〈自己検閲〉版』を見る。自己検閲≒金。しかし昨日思ったよりも悪酔いし、相変わらず人が見て不愉快になる行動をしてしまったせいか、外が暑かったからか、寝不足が祟って嫌な眠気に襲われ何度か長い瞬きをしてしまう。
しかも昨晩酔って(SNSで)悪口を書いた若手監督の状況と無縁でもない気がするから後味悪い。また、ある意味では同じ映画館で上映された『牛久』のことがよぎらなくもない。ここでの醜悪なアレコレは一応は許可なしにありえないことだが、第一部の光景は本当にゲリラなのかどうか。
肝心のホンバンはボカシどころか、ほぼ完全に黄色い画面に覆われて何も見えない。結果マスクを脱いだ女優の顔(つまりフェラチオ場面)もほぼ見えず、第三部の最もハラスメントにあたる集会での醜悪な上映も、ホンバンを映すタブレットが黄色の幕に隠され、マスクした女優を隣に、PTAの小太りなおじさんが興奮している姿がより滑稽にも、更にいやらしい羞恥プレイの想像を掻き立てることにもなるが、AKBとAVの国ニッポンの状況を反映しているのだから仕方ない。とはいえ、これが(小太り役者を使う点も通じる)アルベール・セラの『リベルテ』なら〈自己検閲〉など不可能だろうから、シレッとマスクで覆い尽くすラドゥ・ジューデは既に事態を見越していたかもしれない(彼が独裁政権下の検閲を知らないわけがないしチャウシェスクの名も勿論出てくるが、イスラム圏への不穏当な言及も〈自己検閲〉字幕にはある。また『愛のコリーダ』の日本での扱いも知っているんじゃないか)。第二部のフッテージに対する日本語字幕オンリーのコメントは監督からのプレゼントだろうか。
長回しは控えめだが、第一部の女優がただ歩くパンデミック下の街の夕陽の射す画を繋いでいく、自動車トラブルや罵声も相まって『ウイークエンド』のことがよぎって、これだけでも見れてよかった。単にコロナのタイミングだけでなく、微妙な光の変化が見れるかもしれない時間を選んでいる。第三部になって、日が暮れてライトが灯されての集会の半端な明るさや、二番目のエンディングに舞い落ちる木の葉も印象に残る。ところで第三部にて散々言及されるも声だけで姿を見せない子供達だが(二番目のエンディングに何者かの「娘」が出席していたとわかるが)、過激な性教育ともいえる『パート2』はいつか日本でもボカシなしで見れるのか。
パンフレットも何となく買いそびれた。

ドロシー・アーズナー『ナチに愛された女』スタイルは全く違うがアラン・ドワン並に何本でも作れる監督の映画に見えたが、相変わらずの勘違いだったら申し訳ない。スクリーンプロセスの安っぽい追跡劇と爆破を終えた途端に、ラストの坂道を包む煙がいいのだが、振り返るな、と男は言うが、彼女は男の言う限度を超えてでも危険なスパイ活動という舞台から降りることなく、再び坂道を上ることを選ぶ。

梅崎春生桜島』を読んで、アルチュール・アラリの『ONODA』が出来たなら、『桜島』を映画にすることだってできるんじゃないかと、素人の想像の足りないところかもしれないが、でも何のボタンの掛け違いかわからないが、アルチュール・アラリなら小野田を主役に撮ってしまうことが許されて、レオス・カラックスが東京の地下に南京大虐殺に使用されたかもしれない銃器を作らせるという倒錯した事態は起きて、今『桜島』を映画にしたり、かかる予算が桁違いなんだろうが『退廃姉妹』や『神聖喜劇』が映画になることはなく、塚本晋也監督『野火』もあれでよかったのかわからない。たしかに『ONODA』を「見ない」という選択はあったかもしれない、というか、良かったと思うのが、ちょっと暢気だったかもしれないが、はたして。

自宅にてヴィンセント・ミネリ走り来る人々』。これをオールタイム・ベストにあげている方がいるのを知っているから、あまり安々と感動したとか言わないほうがいいかもしれないが。人の言葉を借りるなら、これほど「大人の映画」だとは思わなかった。今まで見たディーン・マーティンの中で最も忘れられない佇まいをしていて、『ゴッドファーザー』3部のアル・パチーノはここから来たのかもしれないともよぎる。シャーリー・マクレーンという女優は本当にかけがえのない存在だが、しかしこの映画にヒロインと呼ぶべき位置は存在していない。フランク・シナトラの嫌悪感さえ催す愛情表現が「今こそ見るべき」なのかともかく、そこにロマンスを欠片も感じさせない。ただ黒い影が不意に現れる。葛藤の飲み尽くされたような世界。映画はドラマだが、ドラマだけじゃないかもしれない。レナード・バーンスタインの音楽もききながせないほど、画面に寄り添うだけには留まらない。劇伴かと思いきやアンプから流れていた曲として、人物がスイッチを切る演出に不意をつかれる。これはあくまで映画内の人物の意思によって止められる。シャーリー・マクレーンのかけがえのなさは、それが理解能力を欠いたアバズレ扱いされながら、なお彼女には両思いなどなくても、片思いでも結ばれるリアルさがあるから、そこにはスイッチを切る程度の何かを感じる。

珍しく早く終わったから仕事帰りにマイク・ミルズ『カモン カモン』見る。ホアキンいい。マイク・ミルズ嫌いじゃないつもりだが、はっきり良いと言うには、見ていて取り留めがなさすぎて、いつまで見させられるのか、はたしてそろそろ終わるのかわからず、不安を覚える。ちょっと息抜きのつもりが、やや長くてしんどいことにショック。繰り返すが、ホアキンの好演というか、ホアキンがいいから見ていられる。これ以上自分の心が狭くなったら途中退出していたかもしれないが、それでも映画は最後まで見なきゃわからないものに違いない。携帯の声から離れて少年が駆け出した時に、ようやく映画が終わりに近づいていると時間を掴めた気がする。まあ、でも長いか。

瀬々敬久監督『とんび』これを良いと言うと馬鹿なんじゃないかと一部から言われそうと勝手に不安になる。リアルタイムでは実感できない、ショーン・ペンの映画に泣くという感覚? 違うか。
最初は『糸』より良い(不真面目だから、また一本見逃してしまった)と思ったが、ずっと涙目の人を見てるなあと不意に冷静になってしまったのも事実だ。あとは回想形式で進むけれど、母親の死について息子が知るくだりとかナレーションで聞かされているだけなんじゃないかという気もする。でも銭湯の場面の阿部寛も息子も良かった。阿部寛がずっと涙目だとしても、それは僕の気のせいだったとしても、それでも阿部寛は良かったと思う。
ただ『糸』の倍賞美津子に続き、今回も肝心のシーンに便所を出したり、家庭の有り様の変化に森崎東とか、または先日見た恩地日出夫とか、過去の泣かせる映画たちと一々比べる必要はないのかもしれないが、現在の山田洋次よりも確実に意識してしまう。
阿部寛に対する評価は、自分含め観客にとって、ものすごくどう受け止めるべきか困るというか、やはりそこを試されているのか。これが多少映画祭受けするくらい洗練されたらジャ・ジャンクーの近作みたくなりそうで退屈だが、野暮ったい感じが魅力的だった。もう過去のはずなのに未来のような令和元年。あえて昭和63年を阿部寛の父(誰が演じるかは言わないほうがいいか)の死の年に設定したことについて『糸』と比較して論じる人が誰か出てくるはずだから、あまり今すぐは考える気になれない。だが「鳶が鷹を産んだ」という言葉が冒頭に掲げられ、ヒバゴンも出てきて(嶋田久作と同じぐらい阿部寛も老けるほどヒバゴン化する)、やっぱり阿部寛はかつての映画の暴走し迷ってしまう庶民以上に、鳶というか、昭和の人間とは何なのか?という謎を抱かせる。いや、庶民を映画にするとはどうするべきなのかという問い。彼を妖怪と呼べるほど非人間的で訳がわからない魅力があるわけでもないし、どちらかといえばそうしようとして失敗しているのかもしれない。後輩にケツバットする息子を殴ってしまう時なんか非常にわかりやすい。鉄拳制裁よしとするノスタルジーの映画という解釈はさすがにないだろう。一応は血のつながらない孫の終盤の問いかけが、この映画自体どう受け止めるべきか、やっぱり不安にさせる。もうノスタルジーで済ますのは許されないが、しかしノスタルジーに陥るのも避けられないのは、今の日本映画の限界なんだろうか。妖怪らしくなるのは、やっぱり老けてるのかもよくわからない薬師丸ひろ子の「姉ちゃん」か(阿部寛と再婚するんじゃないかという予感に触れるべきか)、急に芝居を始める安田顕や、杏の身体を気遣うまで老ける大島優子か、母の不在を説く麿赤兒か、だが昭和の、いや広島の?彼ら彼女らが、かつてあった腐っていても汚れていても美しいかもしれない存在が本当にあるのか、それを描いて良しとすべきなのか、映画は泣けばいいものなのか、結果的に過去の映画以上に問いかけている気がする。もうかつてのような映画はできないことをどうせ皆知ってるだろう。こんな抽象的な感想ではなく具体的な話なら、最後の神輿のガッカリに尽きるとかいえばいいのか。本気でスローモーションとフラッシュバックとナレーションはどうにかならないのか。

アスガー・ファルハディ『英雄の証明』。映画以上に訴訟問題や、元になったらしき映画(アザデ・マシザデ本人のYOUTUBEにアップされた作品をさわりだけ見たら、やっぱりキアロスタミの影響下に間違いなくある映画で面白そうな……ここに書く前に最後まで見ればいいんですが。)、そもそもの事件までキアロスタミのイランへの視線、嘘というテーマは実に普遍的なんだろうと何より証明されたわけか。別にイラン人が嘘つきというわけではない。
でも『英雄の証明』は面白い。どんどん地味になっているが、冴えないわけではない。ガラス張りの空間みたいな商店の並びなんか、現実のイランの町並みなのか、作り上げた空間なのかもと不思議に見えるくらい。ここでの事件がネットにあげられ中心人物は更なるどん詰まりな状況へ追い込まれる。
面白ければ盗用問題がチャラになるわけではなく、むしろ余計にウヤムヤに済ませられないだろうが。どっちにしろ人生は続く…と第三者が言って済んだら当事者はたまったものじゃないか。でも、そういう映画だよなあ。

ラドゥ・ジューデ『野蛮人として歴史に名を残しても構わない』を配信にて見る。『アーフェリム!』も面白かったが、こちらは「シュリンゲンズィーフ以降」というフレーズがよぎった(それだけでは大島の流れを汲む長回しの充実や、『ヒロシマ・モナムール』への言及など捉え損なうだろうが)。長編デビュー作らしい『the happiest girl in the world』(09年)はCM撮影の現場を舞台にした傑作だったが(「キアロスタミ以降」といえるかもしれない)、本作では『国民の創生』と題したショーにて「オデッサの虐殺」の上演を試みる演出家が主役になる。どこから連れてきたのか怪しげな大半の面々などシュリンゲンズィーフの劇団というよりはアルベール・セラ(ファスビンダー似)のこともよぎる。彼ら「役者」をめぐる問答の後に雨の降り出すショットが固有名詞の量も含めて恐ろしく充実している上に、続くシーンでは陽が射しているのも驚く(あえて後半の舞台上演の画質と対比できる)。出資者だか役人だか発言力のある男の論点ずらしも醜悪だが、もちろん子供たちへの演出でのブニュエル的な辛辣さなど演出家の側の隙を衝く。テクストの朗読、映像の抜粋(その意図した長さ)、男性器、テレビに向かって茶々を入れる場面、飲酒など、未見の『アンラッキー・セックス』での展開が気になる。画面外から飛んでくる笑い声や、ラストのロープの軋む音(そして無音のクレジット)など、これは配信だけでは勿体なさすぎる。「くたばれロシア人!」のブーイングには苦笑いするしかないか。

アイダ・ルピノ『暴行』。今回上映されるまでは普通に見てみたい映画だったが、あの、時たまやってくる、上映のタイミングから急速に重苦しい避けられない空気が伝わってくる。見ないわけにはいかないが積極的に見たくなくなってきたが……でも見た。
まず急ぎ足でいざるを得ないヒロインに対し、残酷な展開が訪れる。
犯人が観客にはわかるが、彼女は最後まで視認できないというのに驚く。その代わり首の傷の革ジャンだけは忘れられないのだが、『ヒッチハイカー』の片眼を閉じない男のように外見の特徴の強さが匿名性にも、内面に触れているようにも取れる曖昧さに通じている。観客としては彼の嫌な予感は伝わるのだが、そこでは彼の内面と外面がせめぎ合い宙吊りになる。
さらに彼女以外の女性たちの希薄さというか……ルピノの中でも強烈な『危険な場所で』はじめニコラス・レイは女性が男性を家に迎え入れる場面の忘れがたい作家だと思うが、『暴行』では男性が傷ついた女性を家に匿う。そこに女性作家という括りの中に当てはめたとしても収まりきらないルピノの果敢さ、孤独さを見るべきなのか、それとも、ある孤独に陥った彼女が社会へ溶け込むために取らざるをえない必要な手段としてみるべきなのか。それとも映画を見る男性たちへ、彼女と向き合うためにルピノが用意した道筋なのか。

フィリッポ・メネゲッティ『ふたつの部屋、ふたりの暮らし』。キネ旬の星取表にて宮崎大祐氏が『アネット』★2で、こちらには★4だったから「どんなもんじゃない」と思い見に行ったが、これは確かに★4くらいの映画だった。バルバラ・スコヴァは勿論、相手のマルティーヌ・シュヴァリエも良かったと思うが、その辺りを言い切る自信はない。高齢のレズビアン二人の結びつきに、明らかな『鳥』の使い方は勿論、たとえば『何がジェーンに起こったか』のような近寄りがたさを(それを家族や介護士、映画内の人物とマジョリティとしての観客双方に)あえて意識させる作りが興味深いかもなあと。ラストの展開の寂しさもレズビアン吸血鬼の作家ジャン・ローランを(あくまで僕が勝手にですが)連想させてくれた。まあ『アネット』を★2にしたり、どの監督作品も企画に興味はあっても映画自体は面白いか疑問の宮崎大祐氏への信用できなさは拭えないままだが。関係ないがジョン・ファロー『大時計』のことを(そういえば夫の形見の時計の登場もよかった)検索したときに、井上正昭氏のTwitterに「ラングの『Beyond a Reasonable Doubt』が★二つ半で、ジョン・ファローの『大時計』が★四つとか、嘘だろって感じだな。まあしかし、レフェランスとしてはそこそこ使えそうだ。」という前後の繋がりはわからないツイートがあった。

シネマヴェーラにて恩地日出夫監督『女体』『めぐりあい』。
『女体』は『肉体の門』と同年だが『埴輪の女』(『あこがれ』が陶器なら、こちらは埴輪だ)も合わさって、過去と現在が結びつき、なぜ自分は今も生きているのか、という問いが浮上する。それにしても雨のなか洗面所に入るカットの凄さは何のためか……トラックインといい細部の力の入れように改めて驚く。意外と95分に収めながら、牛の解体や、終盤の睡眠薬に時間をさく。同時公開の豊田四郎『甘い汗』が2時間なのを考えると、普段あまり100分以内に収めるかどうかは気にしないが、さすがに監督の差を感じる。テレビドラマの95分や『結婚』の(これまた清順との競作みたいなことに)45分、その時間に収める語りも貴重な技術かもしれない。
『めぐりあい』、武満徹特集としては荒木一郎の歌とセットで一番耳に残る。黒沢年雄がむちゃくちゃなキャラになりすぎないギリギリの塩梅で走る。誕生日に着るTシャツのキャラには笑ったが、名前を忘れた(ロードランナーかと思ったが違った)。峰岸徹(ですよね?役者の顔と名前が覚えられない)と組んで働くところがいい。二人並んでパンし合う関係。夕立ちのハードそうな場面でも水の中を選んできた彼の前で熱く燃える火。あとは兄妹喧嘩の声に耳を塞ぎながら黒沢年雄が風呂に潜ると、酒井和歌子の家庭での笑い声に繋げるとか、ついそういうわかりやすい箇所ばかり覚えてしまうが。酒井和歌子の母である森光子の亡骸を前に、亡き父の弟である有島一郎が語る、求婚したが断られた、強い人だった、ゆっくりしていけばと言ったが、子どもたちと食事をする方を選んだ(その帰りのバスが転落してしまった)、死んでいる人より生きている人を選んだんだな、と語られる。脚本、山田信夫有島一郎の下で酒井和歌子の弟は暮らすことを選ぶ(背景に上る煙突の黒い煙)。酒井和歌子は、できるところまで一人でやっていきたいんです、と笑顔で川崎での寮生活を選ぶ。「一人でやっていく」という言葉が、「生きている人を選んだ」母の選択の下に、誕生日の黒沢年雄と海で泳いだ日の会話の下にある。不幸の連鎖でもありながら、それは「生きている方を選んだ」からともいえるし、そこに常に死者の、もう会えない人たちがいるからというのもある。この連鎖についての話を恩地日出夫の映画に常に感じるが、それを山田太一山田信夫や、そうした脚本家たちがいたからか、それとも初期の『若い狼』『非情の青春』(どちらも不勉強ながら未見)、さらに『女体』の脚本も自身で書いている。

伊豆の踊子』のテレビドラマ版(67年の監督作は未見)を見て、「こういう話だったのか」と、鈍感だが気づいていなかった面をはっきり意識させられた気がする。それはシナリオ(井手敏郎)だけでなく役者たちのリアクションへの演出も関係しているんだろうか。

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アベルフェラーラ『トマソ』を見る。このサイトで配信されているものを見たのは、ようやく三本目。ラドゥ・ジュデが終わったら解約かもしれない。
フェラーラの映画自体、上映やったりやらなかったりだから、でも『地球最後の日』や『ハニートラップ』(ドパルデュー主演の傑作)あたり一年に一本くらい見れた気がしたが。とはいえ『キング・オブ・ニューヨーク』とか『バッド・ルーテナント』とか特に繰り返し見ていないから漠然としか覚えていない。でも『パゾリーニ』くらいはBunkamuraでやってほしいのに、まだ上映されない。海外版を買って見た『パゾリーニ』と同じく『トマソ』もイタリアが舞台だった。そして『パゾリーニ』に続き、作家が次回作のイメージを練るシーンが出てくる。それは具体的な行為に及んでいるというよりも、『パゾリーニ』なら既にパゾリーニ自身の死が避けられないから、彼の脳内から離れられない(しかしそこに年老いた本物のニネット・ダヴォリがやってくるのが泣かせる)。今回も「実際のイメージ」「参考写真」、絵コンテとトリップ気味の音声に留まる。フェラーラの追う人物に未来はない(それも「男」と限定できるのか? レイプリベンジ物の傑作とも聞く女性主演の『天使の復讐』を僕はまだ見ていない)。映画の大半は「なぜ彼はここにいるのか」もしくは「いま彼はここにいるのだ」に尽きる。ギブソン原作の『ニューローズ・ホテル』90分のうちラスト30分はとりとめのないフラッシュバックが避けられない終末へ向けて後悔の念のように延々と続くのが、未練がましいどころか、映画の構成としては大胆かつ潔いとさえ圧倒されたのだが。
たしかに日本公開は配信以外だと厳しいのか? でも日本での上映がこんな調子だから、フェラーラが何者か掴み切れない。ハーモニー・コリンがフランスの放浪者風なら、フェラーラはイタリア映画? ロッセリーニのこととかどう思っているんだろうか。何度か出てくるテレビ映像のインサートもマルコ・ベロッキオみたく批評しているわけではない。単に自身がイタリア人の血を引いているから? しかし自分はイタリア映画のこともわかっているわけではないから、単に相変わらず、以前よりも信じられるのはデフォーとフェラーラ、その二人だけという印象強まる。あとはどれも妙に印象に残る、その場限りの人物との交流、シンクロ(『地球最後の日』の地球が終わる日にピザ配達をせざるをえない少年が母とスカイプをするシーンの切なさ)。そこに妻と娘がいて、生々しい妻とのペッティングに二回ほど時間を割くが、娘によって中断される。終盤の展開が若干微妙かもしれないが、それでも他の誰もやらなそうなラストが待っていて、さらに娘の踊りがある。あまりカラックスやコリンとか、安易に結びつけるのも何だが、作家とはこういうものなのか、それとも同時代的なつながりもあるのか、アベルフェラーラがこんな人だというだけなのか。あとはポール・シュレーダーの新作が待ち遠しい。
この種の作家そのものの人生やコンディションをニコラス・レイのように映画に刻ませるのは、うまく言えないが、『金魚姫』『空に住む』の一度死線を跨いだような感覚くらいしか、近年の(でもいつから?)日本では存在していない気もする。いや、実はすべての映画がそうなのかもしれないが……。鈴木則文追悼の映芸の座談会にて、澤井信一郎監督が鈴木監督から電話で「今度の俺の映画は一度死線を跨いだからな、深いぞ~」といった話をしていたというのを読んだが。

恩地日出夫『あこがれ』を見にヴェーラへ。武満徹特集なのに「蛍の光」が頭から離れない。山田太一のドラマほとんど見てないのが、なんかもったいないことをしてきたように思う。ブラジル行きのさくら丸の出港、乙羽信子の声のかき消されているとも違う聞こえ方(録音は成瀬巳喜男と組んでいる藤好昌生)。この映画の親子だけじゃなく、あの場にいる全ての人に別れがあることが押し寄せてきて、胸に迫る。乙羽信子の隣のおじさんも名演だった。『新宿バス放火事件』といい、なぜ一人で生きられてしまったかといえば、それはつまり一人じゃないからだ、ということだろうか。しかもその誰かは既に目の前にいない。序盤の施設にいた頃と現在の跨ぎ方に成瀬→堀川→恩地の流れがあるかもしれないけど、後年のテレビドラマとかからは想像できなかった。むしろ一郎が実の母へ会って別れを告げるか決めかねたまま、あえて何も告げず育ての親の元へ向う列車に既に乗っているという場面転換が、孤児と旅の映画として印象に残る。その意味でカラックス上映のタイミングと重なったのはちょうどいいのかもしれない。『月の砂漠』のこともよぎった。泣き顔の見える時が(それを見た側の反応含め)どれもいいというのは珍しいかもしれない。

録画した堀川弘通監督『アラスカ物語』を見る。脚本:井手雅人、撮影:岡崎宏三、編集:黒岩善民。前半のエスキモーとの交流を見ながらフラハティはともかく『バレン』を見たいと思う。それくらい、なかなか挑戦的で面白い。特にモグラたたき風のアシカ猟はかなり可愛いが最後は容赦ない。エスキモーが三林京子岡田英次夏八木勲丹波義隆、そして宮下順子(一瞬だがかなりいい)というのも最初はおかしいが結構いい。ウィリアム・ロスの鉱山師も貧乏くさくなく、なんといってもインディアンとの交渉を引き受ける日本人の宍戸錠がいつも通りといえばいつも通りだが、それだけに異国の地にいる北大路欣也の触れる母国の空気として(「今日は味噌汁の話をした」)これ以上ない絶妙なバディじゃないか。さらに丹波哲郎がインディアンの酋長として現れてからクライマックスの対話も面白い。わりに緩やかに時間が過ぎつつ、『狙撃』の監督らしく痺れるところもあって、非常に見やすい。