アレクサンドレ・コベリゼ『見上げた空に何が見える?』

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ポパイの最新号だか再刊だかの映画特集にて、三宅唱セレクションの「サッカー映画」(サッカーの試合を見ているような気になる映画?)についての文章が再掲されていて、そこにレオ・マッケリ―『めぐり逢い』の少年少女によるコーラスのことを映っている全員自分が主役だと、スタープレイヤーだと言わんばかりに輝いているショットだというような話を書いていた。その意味でもコベリゼの映画はまさに「サッカー映画」だった。

しかし自分はスポーツをやるのは苦手で、体育の授業が嫌いで、未だにスポーツ中継を見る気がしないままだから、ほとんどのスポーツ選手の見分けがつかないというか覚えようと思ったことがない。

映画の役者の顔と名前も見終わって検索しない限り一致しないことも多い。本作の登場人物の名前も忘れ、役者の名前と顔を一致させる努力もしていない。誰がどこに繰り返し出ていたかも認識できていないが、エンドクレジットのキャストの欄が10人ほどしかなかったのには驚いたが、それくらいしか役名のある人物もいなかった上に、同じ男女を二人の人間が演じている。さらには犬にも名前がある。しかし犬はその辺にいただけじゃないかと思う。役名のない鳥もいる(彼らは全員映った瞬間に観客の視線を掴むに違いない)。映画の序盤に繰り返し登場する「風」をモノローグ(ただし、この「声」もまた自分こそ主役であるかのように存在を主張する)は意思のある誰かのように扱うが、あくまで鳥や犬や光と同じく偶然のようなもの(というか、しばしばたとえられるように風とは偶然性そのもの)だが、やはり「風」なしには映画はありえない。途中、ハロルド・ロイドの映画でかつて見たかのように、紙幣が動き出す。これまた役名があったかはっきりしないが識別可能な太っちょの何者かによる釣り糸を用いた悪戯によって。川下りをするサッカーボールは『キャストアウェイ』のウィルソン君のように、そして誰よりも命の危機を感じさせる冒険(「冒険」が本作の主題であるかのように音声は告げる)をしてみせるのに、ボールのことはモノローグも誰も何の名前もつけない。もちろん『めぐり逢い』のコーラスばりに輝くサッカーの少年少女にも名前はついていないし、たぶん彼ら彼女らにどこかで会えても紹介されても誰だったか気づけないし、わからない。しかし足しか映らないショットがあっても、その足を切り離したままにせず、どんな顔の誰の足かわかるようにショットをつなぐ辺りに、一人一人を撮ることへの大切さを自覚している、敬意に満ちた映画に思える。

男女が恋に落ちた途端、外見が変わり、それまで出来ていたことができなくなり、互いに再会できても互いを認識できない。それらの出来事を物語るはずの音声は、映っていることのいくつかを補足する役割からやや距離を置いて、映像はただ映像として、音声は音声として、並走し、互いの自由を維持し、高め合う。やがて男女は撮影・映写によって互いの姿を取り戻し、互いのことを認識したらしい。それも映画内の16mmフィルムの映像と、そこに奇跡を語る音声によって、いま映っている誰が誰であるかを誰かが認識したのだろうという話を伝え聞かされるようなものである。映画で起こった奇跡を奇跡であると観客は認識できたのか。全くできないとは言えないところが本作の謎めいた魅力なのだろう。そして映画は誰か名前も知らないがメッシの背番号を半裸の背中に黄色のペンキで簡素にペイントした、これまた主役のような少年五人組を締めくくりに持ってくる。映画に関わった人間と、いま映画を見ている自分たちは別々の目と耳を持っている。町に2ヶ所しかないというワールドカップ中継を見れるテレビとプロジェクターの場所へ、映画の屋外上映のように集って見上げる人々も、観客とはまた別の目と耳と持っている。

日頃から150分以上、あるいは130分か170分、それに近い長さの映画もまた増え、『アベンジャーズ』など一本見ただけではわからないものもあり、最後まで集中して見るのは35歳になってスマホにも依存している自分には、どんどん辛くなっていく。眠ってしまうか、そうでなくても瞬きや、ボンヤリしてしまって、見ているはずが半分も見れていない可能性はある。おそらく美術館のインスタレーションの大半が共有している認識は「誰も映像をすべて見ることなんかできない」ということだろうが、コベリゼの映画含め、おそらく優れた映画は(商品だろうが関係なく)その程度の認識は一旦は経由しているに決まっている。

映画を見ているはずが、字幕を見てしまう。本作の字幕が、目を閉じてしまうことの避けられなさ(本作もまたあらゆる境界線が歪む『浮遊する境目』と名付けることも可能じゃないか)を告げ、音声から「信号」(記号)に反応して意味を探ることに集中力を浪費してしまう可能性も問われ、日中の映写や反射などにより何が見えるか判別しづらい画面なども挟まれる。さらには誰が誰だかも本当のところ追いきれず、それでも第二部(それも唐突に字幕から告げられる)を経て、椅子による痛みなどの環境も考慮されるのか、映画との程よい距離を掴めるようにしてくれる。やはり150分も映画を見続けるのは異常かつ暴力的で狂っているが、そうでもしなければ伝えられない映画があるのも事実だが、すべての映画がそうとも思えない。『デューン』や『エターナル』や『最後の決闘裁判』(題材に意義はあるだろうが『エイリアン』と比べてもわかりやすく説明をしすぎじゃないか)に良いところがあるだろうとしても、そこに150分費やした結果、見失ったものもあるかもしれない。『ONODA』や『ドライブ・マイ・カー』を見るという冒険を経て、ある気づきを得たとして、それは何かの時間を犠牲にした可能性も否定できないし(だが自らを「冒険」として認識している映画は、自らの存在の危うさも自覚しようとしている可能性はある)、そもそも映画が作られる段階において何かが(その実在の人物を主題に扱うこと自体に避けられない問題があるのか、果たして観客が「ハラスメント」を些末なこととして切り離して見たといえるのか)忘却されているのだという訴えだってある。やがて終盤、本作に映されていない何かが常に起きていることも音声から囁かれるだろう。最後にはおそらく視線を前に向けるしかなかった映画館での体験から解いて、視線を別方向へ、空の側へ(少年たちが階段を上った先へ)向けるよう示唆されるともいえる。ただそう書くと説教臭くなり、映画との関係を無暗にこじらせるだろうか。いまだ、映画、映像とのあるべき付き合い方はよくわからない。ただ『見上げた空に何が見える?』はそこに映っている人々だけが共有できる何かを残している、それくらいのことは部外者かもしれない(いや、本当に関係ないのか?)こちらにも伝えてくる。

地震が多く、五時間くらい寝ると起きてしまい、集中力も落ちている。
東京国際映画祭の『洞窟』もやってると気づかず(てっきり昨日で終わったとばかり思っていた)、しかし撮影レナート・ベルタがよかったしか皆いわないからそんなものだろうと無視して『デューン』。長い予告という話ふくめて地味とか、悪くはないが面白くもないとか、リンチ版の方がいいとか、ボンヤリ見てしまったとか、そんな評判ばかり聞いてきたが、その通りの映画だった。なんと『ONODA』と同じく天井に張り付いて毒ガスを逃れるというのが出てきたから驚いた。予知夢?らしきものが何度も挟まれて、一向にそこには辿り着かないのも、いつになったら始まるんだろうという気になり、これは最終的にその未来にはならないということなんだろうか。まさかこんな地味なところで終わるとは思わなかった。それでもこれは一概に悪い映画ではない、気がする(でも特に何も具体的に言えないのは、この映画に何か思い入れとか愛着とか全く湧いてこないから)。

『最後の決闘裁判』だいたい『デューン』と同じくらいの上映時間だが、こっちのほうが評判通り面白かった。既に諸々、この映画の解釈をめぐって読んでしまったせいか、だいたいは予想通りだったが、まあ、それは構わないくらいには面白く見れた。マット・デイモンが誰かも最初気づかなかったが、ベン・アフレックだとは最後まで気づけなかった(『デューン』のステラン・スカルスガルドとかも気づけなかったが)。第一章は中世残酷物語かと思いきや、第二章のアダム・ドライバーの話になってから思いっきり『プロミシング・ヤング・ウーマン』というか、コスプレした現代劇へ。『それでもボクはやってない』をどこかで上映した時に「中世」と言われた話を思い出す。たしかに「普通黙ってる」は言い過ぎだとしても、いろいろわかりやすくテーマに沿った話を喋りすぎな気はするが、そうでもしなければわからないだろうということか? そりゃ『エイリアン』の監督ではあるから、別に今になって関心を持ち始めたわけでもないだろう(肉体関係の絡む描写一つ一つの怖さ)。彼女の告発が夫を通じて王へ行った段階で、すでに彼女の望む裁きでははなく決闘へ向かったという展開はさすがにわかる。この希望のなさ、カタルシスのなさ含め、解釈しやすさとか、観客への悪意の目くばせというか、その辺の演出の品のないわかりやすさがなんだか乗れない。面白くはあるが、それほど良いという気にはなれない。

本当に恥ずかしながら、ようやく自宅にて田中絹代『乳房よ永遠なれ』を見た。機会はいくらでもあったのだから(今回の映画祭然り)アイダ・ルピノ監督作より先に見れたはずなのに何をやってるんだと、わざわざ書いて人に読ませるのも何だが。そしてルピノを見たときと同じく、古典から現代映画へ橋渡しするキーになる50年代の作家の一人だったとようやく認識する。夫の不倫相手が逃げるシーンから特徴的な省略が始まり、(『流転の王妃』の娘の自死に通じる)結果だけを繋ぐといえばいいのか。何も知らない存在として囲われた女というモチーフも既にある。フレーム内に鏡や窓、格子などの枠が存在するという辺りに、何か同時代のアメリカ映画への意識がありそうな気がする。杉葉子へ向けて「見せる」シーンから、風呂場と居間の間を音がすり抜けているというのが恐ろしく、それによって何が結果として起こるというわけでもなく(月丘夢路が倒れているのだが、それも驚きという結果ではない)緊張感のある曖昧な時間が続く。

東京国際映画祭は逃したが今こそと田中絹代『月は上りぬ』。動物の群れから始まることも何らかのテーマに繋げられそうだが、ともかくどこかで見たことあるような映画が、北原三枝の一挙手一投足の予想の枠の嵌らなさとか、アングルの変化とか、画面奥のススキやムク犬の登場とか、一つ一つを覚えきれないほど別物の映画に変わっていく。それが古典から現代へ、日本から世界へ駆け抜けていくという言い方が恥ずかしいなら、映画の台詞にあるような、大変古風なのか、モダンなのか、その二つは相通ずるものなのか、それ言葉自体がむしろ小津を指すとしても、田中絹代はどこか古風でも「モダン」でもない今、現在、もしくは越境した先(それがアメリカか、あの妙に夢のような月なのか)へ向けて突き抜けていくというか。なぜ映画を締めくくる笠智衆と山根寿子の親子とも夫婦とも師弟とも判別つかない組み合わせが、歌によって、その場にいない佐野修二との組み合わせでは出来なそうな「何か」があるのか。やはり『夏の娘たち』(堀禎一)の俳優たちが同じフレームにいての「何か」と同傾向の志がある。特に姉妹の(女同士の)組み合わせの充実は、やはり男の立ち入る隙のない世界があるというだけの話なのか。それでいて『SHARING』(篠崎誠)で見たような、まるで夢の中で再会した死者と話をするような、男と女が同じ時間を生きていると思えないからこそ美しいシーンもある。それは『風の中の雌鶏』や『お茶漬けの味』のことがあるとしても、あの(まさに驚異的な人口の月による力なのか)光の変化がどうしても黒沢清を先駆けているように見える。

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後回しにしてきた田中絹代監督作のチケットを譲っていただき『流転の王妃』。「軍」という主体の曖昧な組織と、傀儡政権と、華族の婚姻に始まって、娘の自死の原因をめぐって引き離されたままの夫婦の手紙によって終わる。夫婦は顔も合わせられないまま、ただ互いに娘の死の責任を引き受けようと書き記す以外なす術はないのか(もしくは親たちが取れない責任を娘は引き受けたのか)。一貫して宙づりにされているような。雪や花を追うように上昇していくカメラの一方で、地にはカラスと共にかつて皇后だった阿片中毒者の亡骸が横たわり、辿り着けなかった者の名を杭に記した墓がある。絵のように焼けた空を描く行為が彼女を「王妃」とはまた別の像にあえて閉じ込める。見事な映画かつ、どこへも帰れてないような、行く場を失ってしまった気分にさせる。

軍とは、大きな声に流される力として語られる。「軍」は自らを大きな声そのものとは思っていない。大きな声に耳を傾けて動いてくれたものらしい。一応は軍人らしき責任の取り方を最後は示したように退場してはいるが、既に彼らは映画の中心にいない。映画も京マチ子の一人称のようで、その奥には入り込めない。仕草の一つ一つが礼節や儀式の内に回収されていくかもしれない危うさ(その演出を女優出身の監督が引き受けていく凄み)。生きていて、日々問われる「主体性のなさ」という言葉。何かを動かすように思えた人々がことごとく流れていくばかりで、またそれらは常に軍の監視下にあるという。その軍とは何者なのか。時おり名前の出てくる昭和天皇の友情という言葉は虚しく響く。
京マチ子は「油絵」を描くことが許されたと喜びながら登場する。画家として独立する夢の挫折。それは十分悲しいことなのだろうが、映画はその挫折にも距離を置く。
映画だけ見ると娘の自殺の理由どころか状況さえ意味不明である。それを大島渚の映画に登場するようになる、唐突に横たわった女性の遺体を連想するのは極端かもしれないが、いったいどういう状況で京マチ子は娘の亡骸と対面したといえばいいのか。その京マチ子に悲しみは感じても驚きは何一つさせていない。京マチ子によれば、娘のアイデンティティと国家を結び付けようとした重圧が招いた死の可能性がある。京マチ子楊貴妃を演じたことがあろうと、京マチ子と中国の間に繋がりを映画から見出すことの困難さ。その報せを受取った船越英二からの返信もまた、ただ彼がそこにいることができない、そうならざるを得なかったことが娘の死に結び付いたという。無論、娘の死の原因を明かすことに映画の意味があるわけでは全くなく、しかし軍という主体性のない大きな声に流される存在と、一人の娘の死を結び付ける、このポッカリできた穴のようなものに吸い込まれそうになる。

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五所平之助特集。ニワカなので、ここ数年の上映を後回しにしてきた『糸あやつり 人形劇映画 明治はるあき』、やはり凄い映画。五所の映画はよく喋る印象あるが、人形だからほとんど喋らないのもいい。キャリア内での特殊かつ本質が現れた一本という位置づけでいえば何人か同傾向の別の監督を連想しそうになるが、これ以上五所平之助について何の知識もないまま面白みもないいい加減なことを書いてもしょうがないから省くが、ただ『殺しのダンディー』と同年だったから驚いた。空飛ぶ獅子舞も、髑髏ダンスも愉快。『わが街三島』 を見て、優れたドキュメンタリー作家でもあったということが監督の本質に触れられたようで、月並みな感想だが、興味深い。
『わが愛』はここ数日見た中ではそれほど好きではない(「大きくなったら僕の愛人になろうか」がやっぱり気持ち悪いですねえ)が、初っ端から佐分利信が死んで驚いた!(その後、主演だから嫌というほど出てくる) そして同僚に安倍徹が出てくる。佐分利信の亡骸に霧の波が覆いかぶさるとか、先日の芥川比呂志の外見といい、毎度の浦辺粂子といい(今回は三好栄子はいないが、高橋とよがいる)、とっくりがたくさん並んでるのも、どれも人形を見つめるのと同じく特徴を捉えているというのも、またありきたりな感想だろうが。

結局のところモグリなので五所平之助のことさえ避けてきたままだった。
先日の二作に続いて『螢火』を見て、数日前に「勉強」とか書いてしまったのが嫌になった。これまたビシビシ来る。あくまで寺田屋を舞台の中心にして、画面外から繰り返されることになる歌の使い方もいい。ファンになるには遅すぎる、まだまだ見てる本数が少なすぎるが。
大変感動したはずが、その次に見た『欲』は喜劇映画として異常なのか普通なのかただただ判断に困る奇妙さで『螢火』の印象が霞んでいく。ここでも序盤の伴淳三郎三國連太郎渡辺文雄三者が酒を交わす場面(引きの画で外から歌が聞こえてくる)がよかった気がする。伴淳三郎はやはりうるさくなってくるのだが、森繁久弥の印象が薄いのもよかった(それでもうるさいが)。猫を誘拐し勝手に去勢していくという犯行に始まり、伴淳三郎が核開発に対抗して不老不死のために精力漲る男たちの睾丸を片方ずつ摘出していった果てに(どうせ実験は失敗に終わるのだろうと先は読めて、若干わかりやすい騒動を引っ張りすぎにも感じるのだが)、彼の友である千田是也が窓越しに衝撃の(いや展開そのものは読めても、ただ身も蓋もない)事実を明かしてから、伴淳三郎の心ここにない顔まで恐怖は言い過ぎだとしても忘れがたいものがある。睾丸も何もすべて当然オフの出来事ではあるが。

『愛と死の谷間』。同じ椎名麟三『煙突の見える場所』に続き芥川比呂志の良さを改めて知る。演出は淀みないのに話の重点がどこへ向かうか読めない(『五重塔』が近い)上に、まさにノワールな画面の暗さで入り込むまでに時間はかかったが、津島恵子芥川比呂志が言葉を交わしてからがしっくり来て、芥川比呂志が死について語り出したあたりからガッチリ掴まれた。いわゆる笑い屋に乗るのも嫌だが、おかしみも増していき、特に(川島雄三今村昌平あたり見たときに感じる日活らしい)豪華キャストの中でも左卜全の出番は『ジャングルクルーズ』のようといっていいのか悪いのか。にしても『煙突〜』といい本作といい芥川比呂志が真面目な顔して事態をシフトさせていくのだが、「僕は死んだんです」とか、今なら万田邦敏がやりそうとか言っていいのか、やっぱり悪いのか。いずれにせよ終盤の木村功はじめ狂ってしまってからも映画自体は一貫して羽目を外さず距離を狂わさないから素晴らしい。しかしどんな顔をして見たらいいのか謎の映画。

 

オミルバエフ『ある詩人』は五所平之助と同じくらい面白く、先が読めない。前に見た『ある学生』がブレッソンを参照したなら、今作はさらにブニュエルオリヴェイラパウロ・ブランコがタッチしてるわけだが)、イオセリアーニらの時空のねじれと夢(この要素は『ある学生』にもあったはず)、やや旅の要素がエリア・スレイマンのことも思い出したが、五所平之助同様オミルバエフも唯一無二なのだった。
詩人が主役といえば『ビーチバム』もあるが、真逆のようで適当に関連づけたくもなる。序盤と終盤を携帯動画でおそらく撮影した映像があえて挟む。覚めても覚めない夢の中で、ただ目覚めようと抗いながら旅を続けるしかないのか。

五所平之助特集に通い始める。

これまで後回しにしてきた監督の一人だからありがたい。帰りに知人友人から五所ファンの話を聞いて、まともに追う気になれてなかった自分はまだまだガキだなとか思う。
マイケル・カーティス的な位置?と思いつきかけたが、別に映画も、たぶん監督自身も似ている気はしない。
五重塔』のあっという間に塔がニョキニョキどころか既に建っていて(というか室内にあったモデルのミニチュアがそのまま巨大化)、その日の夜に運悪く嵐が!という展開へシフトするなど、重点がそちらへ向かうのが予期できず、それでいて特に豊田四郎みたいなわかりやすい演出の気合が注がれるわけでもなく面食らう。
『煙突の見える場所』。おばけ煙突の話はこち亀とか小学校の頃に見た戦争体験のアニメとかあるが。隣近所の騒音が、突如預かる羽目になった赤ん坊の泣き声(この疑似家族的な題材は鈴木史さんによれば多用されるらしい)によって次第に気にならなくなり、最後には赤ん坊の声を懐かしむことになる。煙突の本数が見る場所により変わるみたく、感覚をシフトさせていく映画(このあたりユーモアセンスが際立つ)? 陽のかわる時間帯を狙ったような場面が目立つ。
『大阪の宿』。DVDも買わず終いだった(いま調べたら高騰してる)が、やはり名作はもっと早くに見ておくべきだった。遅ればせながら五所平之助の魅力にピタッとハマれた一本。斜め正面からのショットを中心にアングルやサイズを変えながら淀みないリズムがヘンリー・キングの映画あたりに近いといっていいか、不勉強だから確信は持てないが。限られた期間についての物語が同じ新東宝だからか、清水宏中川信夫の扱った題材にも重なるが、似て非なるものになっている。その活動時期を選びそうなキャリア含め、日本にいそうでいない存在かもしれず、それが隠れた?ファンの多さに通じるのかもしれない。先日ホイット・スティルマン『Love & Friendship』とジャン=クロード・ビエットの近さを先輩シネフィルから聞いたが、日本なら『空に住む』と『大阪の宿』を並べられるか? 『大阪の宿』もコバヤカワ・コハヤガワ、東西の読み方が変わる名を重要人物に与えているが、それは東西どちらでも左遷され行き来する佐野周二にとって大事な相手にもなる。それにしても小早川さん、ウワバミはんの乙羽信子が美しい。『べレジーナ』同様の飲みっぷりで、彼女と佐野周二の握手にジーンとくるし、彼女がコップに並々ついだ酒を相手にしない奴に頭からひっかける姿に拍手したくなる。彼女から「星」のようと言われた佐野周二の「僕は地上にいなかったのだ」という最後の挨拶も『空に住む』のことがよぎる(最も主役のいる場所は上下真逆になり、それが『空に住む』の特異な死の臭いがする浮遊感に通じる)。キャストは毎日佐野周二が目にするポストの娘までどれもいい。芥川也寸志の音楽も当然いい。買い物ブギといい既成曲の使い方もいい。
『わかれ雲』はなんといっても二枚目時代の沼田曜一!だが、ここでは(どうも初期作に多出するらしい)血のつながらない親子たちの話が、戦争の記憶とともに故郷でもない八ヶ岳へ向かっていく。喉に魚の骨が刺さった少年のためにランタンを持っていかれ、一旦は闇に消えるヒロインの居所の見つけられなさ、そこにやや自分を見てくれない男へ向けたものなのか、性的な色気を感じさせるのがよかった。『大阪の宿』の後に見ると、それは疑似家族というより、行って帰る往復に見え、それが血の繋がりやルーツとは違う可能性を人々に与えようとしているのか(この可能性は清水宏にもあるが、やはり別れの要素、一つの場所に留まれない者という印象が強い)。ここでも人物間のドラマ的にも視覚的にも微妙な距離がいい。亡き母の形見の匙が、母代わりの女性からのプレゼントの小袋と行き交う最後。『大阪の宿』の佐野周二同様、彼女が本当にまたやってきてくれることを期待して。