月曜日。早稲田松竹ダニエル・シュミットを見に行く。
『べレジーナ』の度数20以上ありそうなリキュール「修道尼」は3ショット耐えればいくらでも飲める身体になるという(ロシア人もしくは山の民の底力?)恐るべき飲んだくれ映画だと忘れてた。それだけで、とりあえずシャンパン頼む人が滑稽に見える(『ヘカテ』はヒッチコックシャンパン映画みたいに始まるが)。それからは身体が火照り続けてるような映画。酔いから覚めた時には体制が転覆している(しかし最後には『今宵かぎりは』同様、限られた期間の祭りに過ぎない可能性は告げられるが)。泥水したヒロインのふらつき具合がSトミンさんに見えて仕方なかった。手紙を受け取る家族といい、パーティーで彼女の「友人」が勢揃いといい、戴冠式といい、多数の人を詰め込んだワンショットの真の豪華さ(または何気ない簡潔さ)にハッとさせられる。

 

ロメロ『There's Always Vanilla』恋人たちの部屋の扉を出入りする際に繋ぎ間違いが起きたり、起床したら目覚まし代わりにテレビかラジオかわからない音声が聞こえたり、そもそも何かわからない音が聞こえ(それは次の場面から先に聞こえてきている音なのだが)、常に壁はありながら破られたように内側は外側からの影響から逃れられない。常に外側の出来事(主に音声)から逃れられない男女の部屋とは映画そのもの(「映画館」そのものが館の外の出来事・社会と切り離せない上に、また視聴環境としては自宅のテレビやパソコンで映像を見る時も外の音からは逃れられない)かもしれない。箱から飛び出し浮上する赤と青の風船に『ゾンビ』のヘリコプターが予告されている。やはり妙に先行きは見えず、何らかの空洞を感じさせて、暗い。

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ロメロ『アミューズメント・パーク』。予告の段階から眠気に襲われ、そのまま前半集中できなかった。
結局ロメロの映画とは何か言葉にしにくい存在に変わりないまま(といいつつDOMMUNEは見逃している)。社会派であり、教訓はあり(『クリープショー』に近いか?)、限られた空間に籠っての寓話であり(「外側には何もない」)、最初と最後の白い空間が『ゾンビ』『死霊のえじき』の夢を思い出す。そして細かいカットの積み重ね。つまり、ロメロの映画を見た、ということだが。
ロメロの映画について語れることというのはどれくらいあるのかといえば、本が何冊も作られるくらいあるのだが、それでもロメロの映画ほど言葉にした途端、すり抜けていくものはない気もする。それはロメロ個人の不遇についての話か、ゾンビについての話か、個人の分裂についての話か、その映画の題材の話か、ロメロの映画の本質には誰も触れられないでいてほしいという願望に過ぎないかもしれないが。ロメロに限らず映画というものの本質には触れられないというようなもどかしさ。ただ別にロメロに関する文献を漁ったわけではない。僕個人が映画を見て何となく感想を書こうとした時に、ロメロの映画ほど、本当に自分はちゃんと向き合えたのかわからなくなってしまうものもない。『サバイバル・オブ・ザ・デッド』のような「透明さ」と人が言えそうな映画になりそうで、結局のところゾンビ映画に透明もクソもあるのか、という気にはなる。ただこの作家の妙な人物に空洞さを見出す性質と、ゾンビに対して向けられた愛着がマッチしていたのだろうが、それ以上考えようとすると頭痛がしてくる。

その原因は彼が「社会派」に留まらない「社会派アクション」の監督だから、つまりアクションは言葉にできないから、と思いついたことはある(そりゃアクション抜きに『ナイトライダーズ』も『ダークハーフ』も『モンキーシャイン』もレーザービームの『URAMI』もありえなかった気がするけれど、それを「アクション」で済ますのは、いわゆる「解像度の低い」話なんだろう)。そして彼がゾンビ映画の監督になったという星の巡り合わせ。ゾンビとアクション。これほど口にするほど虚しくなる即物的な?存在はないのか。でもそれは既に誰かが言ったことをファスビンダーの『悪魔のやから』じゃないが忘れてしまっているだけな気がする。

気になってしまい悪名高い『デビル・ストーリー』を見る。
『ONODA』に続き、ブニュエルを(特にメキシコ時代のを)見返したくなる映画だった。深尾道典を見たとき(また大分以前に見た『わいせつ女獣』の関良平とか)くらいは唖然とした。特にトトロみたいな夢オチ後の展開は絶句。それ以前の映画の予告を見る限りコテコテのコメディを撮っているようだが、リマスターによる明るい夜のせいか、やはり一々リアクションはキョロキョロしたりワーワーしたり(それを遥かに上回るヒヒーンの連続にうんざりさせられるが)コテコテに案外変わりない。ガソリン切れした理由を親切に説明するフラッシュバックの凡庸な使い方とか、暗転とか、風景とか、どうにか取り繕わなければと苦心した跡がわかりやすい。車の窓に吐かれた血糊を即座にワイパーで清掃する(撮影用の車を何としても無傷で返却しなければいけなかったのか)。だがあの怪人のビジュアルが全てなのか(『悪魔のいけにえ』からいただいたといえばそれまで?)。これがもし馬とミイラだけなら、もう映画自体残っていないと思う。馬とミリタリー老人のMVみたいな。馬、ミイラ、怪人、ミニチュアの幽霊船、ミリタリー老人。この五つが出来の悪い、収集をつけることさえ出来ない救いのない映画から歪な禍々しさを引き出す。学生映画にはない妙な貫禄がふてぶてしい。

アルチュール・アラリ『ONODA』

アルチュール・アラリ『ONODA』を見る。勢いで「今年一番面白かった気がする」と知人に言ったが、冷静に振り返ると本当にそうなのかは何ともわからない。『MINAMATA』といい海外から日本のことを扱ってほしい欲望の何かスポンサー的なバックや時代の流れが存在しているのかもしれないが、一緒にはしたくない(ラスト、本作が誰に捧げられたか、そのクレジットの印象は強い)。『MINAMATA』は事情は知らないが自分で語れない日本人が「撮らせた」美談にしか思えないが、『ONODA』はいろんな意味で日本人には撮れない。無名ではないのに北野武の映画に出ているという認識しかできず(しかも『ソナチネ』と『アウトレイジ最終章』以外は忘れてしまった)、なぜだかほとんど思い出せない津田寛治の老け役がとても良かったと思う。
陸軍中野学校時代にイッセー尾形佐渡おけさの何が良いか、俺の歌うように歌ってみろ、同じ歌詞を歌えと言ったんじゃない、俺のように歌え(それがわからないんだったらこの場にいる資格はない)、そうだ、歌詞が変わろうと歌は変わらないのがいいんだ、だから自分自身の歌を歌え、自分自身の司令官になれ、と言う。その指示の先にあるイッセー尾形の無責任さを映画は無視していない。
それでもリズムさえ同じならいいというか、その感覚は映画冒頭からはっきりある。nobodyのインタビューを読むと興味深いのは、撮影当初は『日本春歌考』から「満鉄小唄」だった個所を諸事情から「北満だより」に編集時に差し替えているという。また日本語の台詞が聞き取りにくい。もう少し長いカットになりそうなところを割ったり、すぐに他者の声が被さったり、カットバックしていくリズムが母国語の映画ではやりにくい思い切りのよさみたいなものがある(こう書くと大島渚のカット尻の短さに近いかもしれない)。仲間が選んだ七人から容赦なく四人と減り、二人きりになり、人物の関係は言葉だけでなくカットバックの構図で伝わってくる(無字幕の他の国の映画だとしても自然と対立・友情は頭に入ってくるだろう)。気持ちよく見れて、かつ入り込むまでに時間がかかる(気分としては『アナタハン』の日本語の上に英語のナレーションが延々重なるのに近い)。別にこちらの不勉強だけが原因ではなくイッセー尾形の託す「秘密作戦」の何がどう秘密作戦なのか、傍から見ると何だかよくわからないままにされる(そりゃ井之脇海も納得しないだろう)。
『汚れたダイヤモンド』に続き暴力描写に惹かれる。カットが変わると滴る汗、大雨と水の唐突さ、美しさ、輝きも前作のダイヤから貫かれている。ズームもトラヴェリングも妙な味が増している。吉岡睦雄も諏訪敦彦もいい。この調子だと100分くらいで疲れてしまうかと思っていると、四人での暮らしが始まるあたりに津田寛治も出てくるから『ソナチネ』っぽさを一瞬予感する。美談仕立てという本当に見てるのか不明の批判もあるが、『ソナチネ』を見てヤクザの生き方を肯定しているとか思うか?という意味では、そう思って見てしまう層もいるかもしれない危うさはあるが(森崎『帝銀事件』を見て「やっぱ平沢が犯人」と思ってしまう親戚の笑えなさというか)。それでも浅田彰のいう、皇居前で土下座する「土人」の国としての日本人像に重なるというか、小野田の日記に昭和の元号のまま年月が記録されていき、そこに日本と時間の流れは断ち切れていない(本当に責任を取るかもしれないトップの首はまだ切れていないのだから徹底抗戦継続の可能性は捨てられない)。「あなたが上官で本当に良かった」という台詞が海辺で交わされている頃、もしかすると『秋刀魚の味』の軍艦マーチが流れているかもしれない(無論ただのオマージュではない)。それでいてラジオと新聞を手に入れてからの解読が決して危うい状態の笑えない人々としてだけではなく、そこにバカンス、冒険、子どものキャンプのような楽しさがどうしようもなく蘇ってくる(年代の近いアントナン・ペレジャトコ、撮影トム・アラリとも繋がるギヨーム・ブラックとともに引き継がれたジャック・ロジエブニュエルらの記憶)。ほかにも安易な連想だが『ランボー』のトラウトマン大佐や、アギーレのリビングデッドを呼ぶ『ジャングル・クルーズ』とか『オールド』とかもよぎったが。

もちろん日本人が「忘れる」のは戦没者そのもの以上に、なぜそんなことをしたのか、何をしたのか、誰を殺したのか、その記憶なのだが、そのあたりをどう捉えた方がいいのか。散らかった感想になるが、いずれ書き直したい。

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中川信夫『夕焼け富士』。20分ほど遅刻した上、夜勤明けのため意識を何度か失う。しかし起きていた限り『東海道四谷怪談』の要素は揃っている。伊藤雄之助が外見のおかげか伊右衛門的な立場なのが興味深い。彼が人を殺める曲路をアラカンも行き来する。復讐の時を待つアラカンが『亡霊怪猫屋敷』の霊のように、その曲路へ人を導く、この怪しさとおかしみはどこから来るのか。アラカンの銃声は『四谷怪談』の花火のように響く(この話は赤坂太輔さんがしていた気がする)。中川信夫伊藤大輔小津安二郎のようなタッチで距離を置きながら両者より低予算活劇にする元祖パロディアスユニティというか。時間と空間が人物を捕えて、そこから彼らは抜け出せず、ただあくせくしようが、もがこうが、ボンヤリ構えていようが、誰もが一様に待つほかない。この感覚が中川信夫の映画をジャンル問わず貫きながら、閉塞感はない。得体のしれない大きな何か歯車の回転、もしくは雲の流れに我が身を委ねるしかない。

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『曠野に叫ぶ』(21年 キング・ヴィダーキング・ヴィダーの映画の煙は美しさと禍々しさを併せ持って、画面を白く覆いつくす。牛の群れも動き回る。役者とリスの切り返しもある。コントロール困難なそれらの生々しさだけじゃなく、そこへ教会を建てる。馬に乗り駆け回る人々は幾度か落馬し気絶し、復活する。お転婆な娘は二度倒れ、一度はリスとともに何事もなかったかのように目覚め、二度目はもはや寝たきりのまま過ごさなければならないと診察を受ける。救いは祈りしかない。しかし神はいるかどうかもわからず、いたとしたら残酷で、祈る価値があるのかわからない。それでも彼女は文字通り火事場の馬鹿力で走り出すのだが、遅れてきた父の「俺の祈りが通じたのか」と台詞が出る時、観客として笑うしかないのか、胸打たれるのか、どうすればいいのかわからない。そもそも彼女をめぐる状況は、深刻さにはまり込むことから距離を置こうとしている。
動き回るだけじゃなく頻繁に倒れるものも出てくる不思議な映画で、寝たきりの彼女の周りでサンタクロースの格好をしてツリーも用意して喜ばせる、彼女のベッド周辺だけの限られた世界の喜びを周囲の人々は作り上げている。その絶望よりも、これはこれでいい、と下手したら深刻さに欠ける、やや理想化された、それゆえに興味深く作られた狭い範囲の舞台。でもそれだけじゃなく、外へ出れば美しい雪景色があり(これまた白いものが画面を覆っている)人々は駆け下りている。祈りによる救いとは、いま半径数メートル以内にある空間において、満ち足りる術を身に着けるということなのか。それとも救われないがゆえに祈るのか。
『北西への道』終盤の激しく光の明滅する山脈での決闘を見て、リュック・ムレは画面を覆う白い光に、キング・ヴィダーら作家の抵抗を見たと書いていた覚えがある。その光がムレの『ビリー・ザ・キッドの冒険』の発想の源におそらくなっていることを思い出す。屋外の雪、セットに入り込んでくる煙、一方には人々は仲間たちと共に教会を建て、ベッドの周囲にクリスマスの装置を用意し、聖書を読み、祈る。そのキング・ヴィダーの映画に見える神頼みにより共に生きるシステムが屋外からの白に拮抗する様もまた、映画をめぐる「貧しさ」に敏感なリュック・ムレを刺激するのだろうか。

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ディーノ・リージ『1848』バレエから始まり、投石の瞬間は見えず窓が急に割れて声があがり、バリケードを築き始め、1948年のネオリアリズモの光景から100年前へ、イタリア独立の戦いを野外劇として上演しているように見える。
西山洋市の配信された新作『愛と嫉妬のパンデミック』(総監督クレジット)だと「コロナ下で映画をつくる」プロジェクトと「言霊」の実験(そのどちらもうまくいっているのかよくわからない)が一本の映画になろうとしていたけれど、ああいう感じ(とはまた違って、こちらは野外ではなく映画美学校のスタジオ内に籠るわけだが)。むしろ『1848』からは西山洋一の頃の『桶屋』に近い発想の自由さを感じる。

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高橋洋脚本・監修『うそつきジャンヌ・ダルク』三部作。高橋洋の監督作は第三部のみ。第一部、二部もちゃんと面白い。
第一部(監督:福井秀策)、光射す野原を歩くヒロインのアップから、その背景の光源がプロジェクターによって投影された映画美学校の一室での舞台上演とわかる最初のショットが導入部として素晴らしかった。スタッフが舞台に上がって殺される端役になる仕掛け、今回の脚本家(舞台の作家)としての高橋洋の発想元はロッセリーニ(ラドゥ・ジュデと同じく、これまたマスク映画)経由のポール・クローデルっぽい何か(高橋洋は『繻子の靴』を見れたのか)、しかしアクリル板のガタガタやってくる感じは井上正昭さんのTwitterに出てきたフリッツ・ラングヒッチコックの撮り方の音もなくやるのではなく、あくまで「ガタガタ」いう音が一々するのが面白い。
第二部(監督・脚本 倉谷真由)、砦のすぐ下との罵り合い(敵兵の主観かと思いきやカメラを持ったスタッフが巻き添えで死ぬドキュメンタリー的?な展開)からイントレを用いた戦闘場面へ移行し、ジャンヌが返り血を浴びるまでの冒頭5分。戴冠されるシャルルのみっともなさ、騙されているとも知らずカトリーヌを助けに行くジャンヌ。最もシスターフッド的ともいえる?
第三部(監督・脚本:高橋洋)。やはりジャンヌは火刑の前後に「あの世」を見る。大和屋竺高橋洋的というか、ここは自分で監督やってもらわないと困るパート。第一部にも登場したイザボー・ド・バヴィエールの肖像がコティングリーの妖精みたいに大活躍、「ぴえーん」なのか何なのかクセになる鳴き声を発する。この辺の(多感な時期に日本のテレビ黄金世代を見てきた力なのか)センスがやっぱり面白い。