アルチュール・アラリ『ONODA』

アルチュール・アラリ『ONODA』を見る。勢いで「今年一番面白かった気がする」と知人に言ったが、冷静に振り返ると本当にそうなのかは何ともわからない。『MINAMATA』といい海外から日本のことを扱ってほしい欲望の何かスポンサー的なバックや時代の流れが存在しているのかもしれないが、一緒にはしたくない(ラスト、本作が誰に捧げられたか、そのクレジットの印象は強い)。『MINAMATA』は事情は知らないが自分で語れない日本人が「撮らせた」美談にしか思えないが、『ONODA』はいろんな意味で日本人には撮れない。無名ではないのに北野武の映画に出ているという認識しかできず(しかも『ソナチネ』と『アウトレイジ最終章』以外は忘れてしまった)、なぜだかほとんど思い出せない津田寛治の老け役がとても良かったと思う。
陸軍中野学校時代にイッセー尾形佐渡おけさの何が良いか、俺の歌うように歌ってみろ、同じ歌詞を歌えと言ったんじゃない、俺のように歌え(それがわからないんだったらこの場にいる資格はない)、そうだ、歌詞が変わろうと歌は変わらないのがいいんだ、だから自分自身の歌を歌え、自分自身の司令官になれ、と言う。その指示の先にあるイッセー尾形の無責任さを映画は無視していない。
それでもリズムさえ同じならいいというか、その感覚は映画冒頭からはっきりある。nobodyのインタビューを読むと興味深いのは、撮影当初は『日本春歌考』から「満鉄小唄」だった個所を諸事情から「北満だより」に編集時に差し替えているという。また日本語の台詞が聞き取りにくい。もう少し長いカットになりそうなところを割ったり、すぐに他者の声が被さったり、カットバックしていくリズムが母国語の映画ではやりにくい思い切りのよさみたいなものがある(こう書くと大島渚のカット尻の短さに近いかもしれない)。仲間が選んだ七人から容赦なく四人と減り、二人きりになり、人物の関係は言葉だけでなくカットバックの構図で伝わってくる(無字幕の他の国の映画だとしても自然と対立・友情は頭に入ってくるだろう)。気持ちよく見れて、かつ入り込むまでに時間がかかる(気分としては『アナタハン』の日本語の上に英語のナレーションが延々重なるのに近い)。別にこちらの不勉強だけが原因ではなくイッセー尾形の託す「秘密作戦」の何がどう秘密作戦なのか、傍から見ると何だかよくわからないままにされる(そりゃ井之脇海も納得しないだろう)。
『汚れたダイヤモンド』に続き暴力描写に惹かれる。カットが変わると滴る汗、大雨と水の唐突さ、美しさ、輝きも前作のダイヤから貫かれている。ズームもトラヴェリングも妙な味が増している。吉岡睦雄も諏訪敦彦もいい。この調子だと100分くらいで疲れてしまうかと思っていると、四人での暮らしが始まるあたりに津田寛治も出てくるから『ソナチネ』っぽさを一瞬予感する。美談仕立てという本当に見てるのか不明の批判もあるが、『ソナチネ』を見てヤクザの生き方を肯定しているとか思うか?という意味では、そう思って見てしまう層もいるかもしれない危うさはあるが(森崎『帝銀事件』を見て「やっぱ平沢が犯人」と思ってしまう親戚の笑えなさというか)。それでも浅田彰のいう、皇居前で土下座する「土人」の国としての日本人像に重なるというか、小野田の日記に昭和の元号のまま年月が記録されていき、そこに日本と時間の流れは断ち切れていない(本当に責任を取るかもしれないトップの首はまだ切れていないのだから徹底抗戦継続の可能性は捨てられない)。「あなたが上官で本当に良かった」という台詞が海辺で交わされている頃、もしかすると『秋刀魚の味』の軍艦マーチが流れているかもしれない(無論ただのオマージュではない)。それでいてラジオと新聞を手に入れてからの解読が決して危うい状態の笑えない人々としてだけではなく、そこにバカンス、冒険、子どものキャンプのような楽しさがどうしようもなく蘇ってくる(年代の近いアントナン・ペレジャトコ、撮影トム・アラリとも繋がるギヨーム・ブラックとともに引き継がれたジャック・ロジエブニュエルらの記憶)。ほかにも安易な連想だが『ランボー』のトラウトマン大佐や、アギーレのリビングデッドを呼ぶ『ジャングル・クルーズ』とか『オールド』とかもよぎったが。

もちろん日本人が「忘れる」のは戦没者そのもの以上に、なぜそんなことをしたのか、何をしたのか、誰を殺したのか、その記憶なのだが、そのあたりをどう捉えた方がいいのか。散らかった感想になるが、いずれ書き直したい。

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