中川信夫『夕焼け富士』。20分ほど遅刻した上、夜勤明けのため意識を何度か失う。しかし起きていた限り『東海道四谷怪談』の要素は揃っている。伊藤雄之助が外見のおかげか伊右衛門的な立場なのが興味深い。彼が人を殺める曲路をアラカンも行き来する。復讐の時を待つアラカンが『亡霊怪猫屋敷』の霊のように、その曲路へ人を導く、この怪しさとおかしみはどこから来るのか。アラカンの銃声は『四谷怪談』の花火のように響く(この話は赤坂太輔さんがしていた気がする)。中川信夫伊藤大輔小津安二郎のようなタッチで距離を置きながら両者より低予算活劇にする元祖パロディアスユニティというか。時間と空間が人物を捕えて、そこから彼らは抜け出せず、ただあくせくしようが、もがこうが、ボンヤリ構えていようが、誰もが一様に待つほかない。この感覚が中川信夫の映画をジャンル問わず貫きながら、閉塞感はない。得体のしれない大きな何か歯車の回転、もしくは雲の流れに我が身を委ねるしかない。

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『曠野に叫ぶ』(21年 キング・ヴィダーキング・ヴィダーの映画の煙は美しさと禍々しさを併せ持って、画面を白く覆いつくす。牛の群れも動き回る。役者とリスの切り返しもある。コントロール困難なそれらの生々しさだけじゃなく、そこへ教会を建てる。馬に乗り駆け回る人々は幾度か落馬し気絶し、復活する。お転婆な娘は二度倒れ、一度はリスとともに何事もなかったかのように目覚め、二度目はもはや寝たきりのまま過ごさなければならないと診察を受ける。救いは祈りしかない。しかし神はいるかどうかもわからず、いたとしたら残酷で、祈る価値があるのかわからない。それでも彼女は文字通り火事場の馬鹿力で走り出すのだが、遅れてきた父の「俺の祈りが通じたのか」と台詞が出る時、観客として笑うしかないのか、胸打たれるのか、どうすればいいのかわからない。そもそも彼女をめぐる状況は、深刻さにはまり込むことから距離を置こうとしている。
動き回るだけじゃなく頻繁に倒れるものも出てくる不思議な映画で、寝たきりの彼女の周りでサンタクロースの格好をしてツリーも用意して喜ばせる、彼女のベッド周辺だけの限られた世界の喜びを周囲の人々は作り上げている。その絶望よりも、これはこれでいい、と下手したら深刻さに欠ける、やや理想化された、それゆえに興味深く作られた狭い範囲の舞台。でもそれだけじゃなく、外へ出れば美しい雪景色があり(これまた白いものが画面を覆っている)人々は駆け下りている。祈りによる救いとは、いま半径数メートル以内にある空間において、満ち足りる術を身に着けるということなのか。それとも救われないがゆえに祈るのか。
『北西への道』終盤の激しく光の明滅する山脈での決闘を見て、リュック・ムレは画面を覆う白い光に、キング・ヴィダーら作家の抵抗を見たと書いていた覚えがある。その光がムレの『ビリー・ザ・キッドの冒険』の発想の源におそらくなっていることを思い出す。屋外の雪、セットに入り込んでくる煙、一方には人々は仲間たちと共に教会を建て、ベッドの周囲にクリスマスの装置を用意し、聖書を読み、祈る。そのキング・ヴィダーの映画に見える神頼みにより共に生きるシステムが屋外からの白に拮抗する様もまた、映画をめぐる「貧しさ」に敏感なリュック・ムレを刺激するのだろうか。

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