クラリッセ・リスペクトル『星の時』読みながら、実在するだろう人物を見ること≒空洞と向き合うことというような感覚が、『包む』や『赤い束縛』の唐津正樹監督のことを思い出す。『赤い束縛』の「アサイ」という名前は忘れられない。リスペクトルをその範疇に入れていいのかわからないが、唐津さんはラテンアメリカ文学への関心があり、また(シークレット上映だったが時効と勝手に判断して名前を書いてしまうと)自作の併映が『忘れられた人々』だったが、「ブラジルのヴァージニア・ウルフ」、またはオラシオ・カステジャーノス・モヤ『吐き気』の「サンサルバドルのトーマス・ベルンハルト」といい、知ってるつもりの名前が「メキシコ時代のブニュエル」みたいに中南米からやってくる。それこそ「マジックリアリズム」なんだと言われればそうかもしれないが。アントニオーニよりは唐津さんの映画から受けたものに近い。
~6/22 ジョン・ラインハルト
あれから気になってダン・デュリエ主演『シカゴ・コーリング』のジョン・ラインハルト(1901〜53年死去)監督作を3作ほどYoutubeで見てしまう。あとはウィキペディアの記事を読んだくらいで大して調べていない。
共通項をメモする。
・流れ者的な主人公だが行動範囲が訳あって家、その周辺に行動を制限されている(別に作家性ではない?)
・写真や新聞紙の切り抜きを人物が手にしてアップになる(低予算で語るテク?)。
・同様の構図だと、テレビや窓や鍵穴や舞台という枠が画面内に設けられる(この辺はドワンとか通じる?)
・変化球として階段から転げ落ちてから、段差の隙間から撮ったショットもある。
・扉の出入りが撮られる
・つまり扉を前後して廊下や別室、屋外から屋内への移動を繋げるから、そこでは時間が飛ばされずに持続している
・その扉の出入りを律儀に繋いでいくあたりが須藤健太郎によるジャン・ユスターシュへの指摘を思い出さなくもない。
・壁の向こう側を覗いたり聞いたりもする
・モンテ・ヘルマン『果てなき路』でも似たような演出をやっていた気もするが確信もてない。
・車がパンして「コロラドまで何キロ」とか看板が律儀に繰り返し映る。
・5〜6人以上の人物が一気に画面に収まる
・長屋モノ的な味がある
・だいたい夜。昼でも洞窟だったり電気消してたりして暗いが、アメリカ時代(ノワール作品)に限る?
オーストリア出身。どういう経緯でアメリカにてスペイン語の映画を、さらにアルゼンチンでも監督し、西ドイツで亡くなったのかは不勉強なのでまだ知らない。
6/15~17
6/12~14
6/12
仕事後『暗くなるまで待っていて』。
池添俊さんの作品を見に。まさかの主演で驚く。
6/14
6/12『逃げた女』(ホン・サンス)
ホン・サンス『逃げた女』を見る。男性が監督した「女たち」の映画へ。別に何か挑戦した感じでも変化球というわけでもないが(キューカーとかロージーとかアルトマンとかではない、ホン・サンスはやっぱりホン・サンス)。スクリーンでホン・サンスを見ると、カメラが動かない時は観客として自分から人物たちの変化を追おうと目を動かしたりする楽しみがある。『正しい時~』に絵筆を一日に一本ずつ入れるという話が出てきたけれど、自分の眼を動かそうという気になれる。その動かそうという意識は、あのズームやパンによって導かれたんだろうか。
そして相変わらず、忘れることをめぐる映画。男は同じ話を違う時間・場所で繰り返す。それを見る妻は嫌悪する。しかし女も同じ話を繰り返している。そこに何を読み取るべきか解釈する気にはなれない。ただ言ったことを忘れる。ズームすると、それ以前の画面がどうだったかを忘れるかもしれない。だから割って寄っても変わらないのかもしれないが、やはりカットしないことによって、画を繋いでいた時には「見た」という気になっていたかもしれない感覚が、むしろ何かを「見ていない」と意識させる。誰かにズームすれば、フレームアウトしたものは見えなくなる(知人の感想を読んで、監視カメラの件や扉のことなどまた忘れてしまっていた)。ズームした瞬間に話を聞き逃したような、時間の持続に反して、何か見る側の意識を振り回されたような違和感が生まれる。キム・ミニが冒頭に話したことを繰り返して(そこで冒頭の話を僕は忘れつつあることを思い出すのだが)、映画は映画として何か着地点を見つけたように振舞う。しかし最終的にキム・ミニが再び波を見に映画館へ戻ってくる時、彼女の意識を映画は追いきれず、わけのわからない中身をどこかに置いてきたようにも見えることになる。映画は彼女を見逃さなかったかのようで、どこかへ抜けていったのかもしれないが、まあ、これこそ単なる解釈に過ぎない。
にしてもびっくりするほどクレジットが短い。いつも以上にあっという間だった気がする。
そういえば『夏の娘たち』(堀禎一)を先日ポレポレ東中野にて見直した。上映後の渡邉寿岳・草野なつかトークにて、ロッセリーニの後期の映画のカメラの話をされたといっているが、それでも『夏の娘たち』はロッセリーニと違ってカメラは普通に割っていた(むしろ割ったのを意識させる同時録音にもなっていた)。カメラを動かしながら役者への寄り方が、という話だったと思うが、川辺で台詞が水の音に遮られるのを意識させるくらい、カメラが寄っていくという感じはなかった。それを言うならホン・サンスの方がもしかするとロッセリーニ後の在り方を意識しているのかもしれないが(そこへロッセリーニとバーグマンを、ホン・サンスとキム・ミニがパロディみたいに演じてるとか、そう言うつもりは全くない)。
無理にホン・サンスと繋げて書き続けるなら、『夏の娘たち』ではホン・サンスとはまた全く異なる、変なんだかそうでもないのかわからない渡邉寿岳のガクガクしたズームが数回入るが、そのうち一回は寝たきりの下元史朗の顔へズームする。役者の顔をあえてしっかり捉えるために寄ったような、そういうわけでもないような謎が残る。(おそらく)二回は、ある意味ホン・サンスと同じく向かい合った女優二人が食事する時に西山真来へズームする。たぶんそれは映画にナマの時間を導入しかける。『天竜区』夏篇からか、もしくは『憐』の焚火を囲んでの長回しや『魔法少女を忘れない』の生徒会長とのカットバックからか、それ以前からかもしれないが、インタビュー的な感じがする。それは西山真来の役に聞いているのか、本人から引き出しているのかは謎めいているが、この彼女が何かを決めたんだと言う姿に感動する。同時にそれは「非決定」とも言えそうな、いくつかの解釈をあえて残すのは、その合間合間に男女の間、いや男も何もなく女しか知らない何かがあまりにも多くあって、それは映画が捉えていないものの多さを告げる。そして最も個人的に印象深いガクガクズームは、女たちだけで妊娠したとか結婚しないとか話した後で、なぜだか玄関にやってきた男にガクガク寄る時で、男は話に全然ついていけていないが、冷たいウーロン茶とか振舞われて飲んでいて、そんな彼に向けて「まあ、おまえにはわかんねえよな」という、女たちの目線ではない、年長者からのニヤニヤした目線を感じる。このガクガクにはユーモアがある(話が大分それてしまった)。
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6/11
夜。コズミック出版のBOXに入っていたルノワール『浜辺の女』を再生したら以前見たDVDよりいくらかまともになっていたので、最後まで見る(いま検索したら別にコズミックのが優れているわけではなさそうで、単にケチってきたツケか)。
日仏学院で見たことがあるが、その時は『コルドリエ博士の遺言』と並ぶヘンテコ映画という印象だった。感性がまだ死んでいたんだろう。どうせ今も少なくとも周りからは死んだ感性の人間と見下されているが、まあ、それはともかく。『チャールストン』の黒い球みたいな機雷が爆破するロバート・ライアンの夢で、炎の中から女の顔が浮かび上がるのは『スポティニアス・コンバッション』に連なる気がしてきたり、ジョーン・ベネットとライアンが惹かれ合ってしまう過程を『危険な場所で』と比べたりできるのかもしれないとか(というかロバート・ライアンと自分が実は同じ誕生日とか)、いろいろ余計な連想もできて、ようやっと充実した気持ちで見直せてよかったが、でもまだまだ見れた気がしない。
やはり盲目の画家が盲目の画家に見えない時点で『コルドリエ博士』並みに、実はすっ呆けているのかもしれないが。タブローに何が描かれているか裏向きで見えないのは初見から奇妙すぎて覚えている。画の話をするビックフォード、ライアンの並びがジャン・ユスターシュの『アリックスの写真』っぽいことになるのだが、そこに画のモデルであるはずのベネットのショットを挟むことで、さらに奇妙になるのだが(それをこれ以上分析するための記憶力がない)。ロバート・ライアンもまた盲目なのか?と思わせる展開で、字がぼやけて夢想へ突っ込む展開もあったが、タブローの裏面の謎を思うと、誰の主観なのかという下手な解釈をしてしまった自分が馬鹿らしくて嫌になる。むしろそんな主観が延々ずらされていく。それよりも奇妙なのがまだある。チャールズ・ビックフォードが転落してからライアンとベネットがやり取りする過程で、ただベネットを見るしかないライアンが映る時間が驚くほど長い。で、ビックフォードは目も見えないのに自分の髭を剃刀で剃る(こんなのを疑わない方がおかしい)。「俺が見えていたころの君の美しさを忘れない」と語るビックフォードとベネットの並びをずっと撮るショットでは、もう彼の眼が見えているかどうかは全く関係ない。それはもうかつての思い出の話を、そして心の話をしている限りは盲目も何も関係ないのだ。カットバックの段階でロバート・ライアンはベネットを自分自身のように話していた。映画の中で誰が誰をちゃんと見ているかはわからない。ただ切り返しただけで、その人を見たというよりも、その人と自分を重ね合わせるという、本当に見えていたのかを宙づりにするような解釈を始めてしまう。
何より松村浩行監督『TOCHKA』のことがよぎった。しかしここでは誰も意外なことに死なない(画家が自殺して終わると記憶違いしていた)。サスペンスとかノワールとか、何らかのジャンルの下にあるような振りをしているかもしれないが、まだまだどう形容していいのかわからない。何よりロバート・ライアンが告げる「自分自身を知るために戻らなくてはいけないんだ」という台詞(正確には覚えていないが)にはゾクゾク来た。自分自身とは彼自身のことなのか、彼女とのことなのか。この一言に映画を単純に形容すればいいのか。これは自分自身を知るための諍いなのか。『TOCHKA』のトーチカといえば、最近だと鈴木仁篤=ロサーナ・トレス『TERRA』を見て、夜明けへ向かうトーチカというか、ここでは炭の釜なんだが。じゃあ『浜辺の女』の船の残骸と薪拾いに始まって、最後の炎上は自殺ではなく、すべてを炭へと生成する過程なんだろうか。なんだか舞台の袖へひっそり消えるようなロバート・ライアンの退場はおかしみがあって、驚くくらい爽やかな気持ちになれる。
6/6~9
6/6、7
省略
6/8
国立映画アーカイブにてプドフキン『脱走者』(33年)シオドマク『予審』(31年)。
プドフキン『脱走者』は既に60年代ゴダールで見るようなネオンが33年のソ連にあったんだ(で、ゴダールはこれを真似したのか?)と素直に驚く。
シオドマクは『人間廃業』(31年)とか『不景気よさようなら』(34年)を見たときよりも、こちらがイメージしてるシオドマクの原型を見たような。帰ってから伊藤大輔インタビューが載ってるはずの岸松雄の本を読み直そうとするが見つけられず。
自宅にてコズミック出版から出てる『私はゾンビと歩いた!』。フィルメックス逃したりBlu-rayをケチって買ってなかったりしたので、ようやくまともな画質で見れて嬉しい。
6/9
省略