6/5 毎日書くのは諦めました

面倒なので仕事とか過ぎてしまって思い出せないことは省略。

この数日の間に『アメリカン・ユートピア』も見た。

 

6/3~4

前田陽一監督作を鳴滝、U-NEXTなどネットで何本か見る。

恥ずかしながら未見だった『坊っちゃん』に凄く感動してしまった。岡本信人に個人的に惹かれたが、学生同士の喧嘩の話がただただ清々しい方へ映画を後押ししていくのが泣かせる。一方での松坂慶子米倉斉加年の決別も素晴らしかった(そこも学生の野次が入って米倉斉加年がプイっとやるのが何だか良い)。中村雅俊松坂慶子の、よくある言い方だが自転車での「微妙な距離感」ってやつにも感動。もちろん地井武男大滝秀治宇津宮雅代も学生たちも、キヨさんを演じるちょっとしか出ない荒木道子も何だか良い。満友敬司が助監督だったが、『俺は田舎のプレスリー』の前年。これもソフト化か配信されてほしい。ついでに夏目漱石なら中川信夫の『三四郎』も。こちらの八千草薫にしろ松坂慶子にしろ、その周囲のあれこれ距離感含めて忘れがたい。

 

6/5

ジョー・カーナハン『コンティニュー』を見る。ゲームの世界をメタ的に演出した映画なんか今更と思っていたけれど、なかなか良かったと思う。HULU配信と知ったけど(劇場公開のつもりだったらしいが)『アオラレ』なんかより最初から最後まで詰め込まれていて面白いんだから勿体ない。ところどころ音楽の趣味もいい。
スコット・フリーでの『THE GREY 凍える太陽』は最後まで前進することを決めた男の映画だったが(おそらく死ぬことになるのだろうがエンド・クレジットを終えた後もわずかに息をしている)、そんな彼が何度も死を繰り返す話を撮るのだから悪くなるわけがないのだろう。人生を見つめなおす話に傾くのが正直あまり乗れなくても(なんだか気が乗らないうちに『パーム・スプリングス』も見逃してしまったが)、正直ナオミ・ワッツメル・ギブソンの話がなかなか頭に入ってこずラストの設定が???(『デジャヴ』とか『ミッション8ミニッツ』とか、そっち寄りの話なんだろうけど)でも、ぶった切るように、彼が助かるか世界が助かるかの答えも何もなく、やはり覚悟を決めたからOKと言わんばかりに映画は終わる。実はそんなに好きなノリの映画ではないが、有無を言わさぬところがある。

 

自宅にてルドルフ・マテ『武装市街』。あのブロードウェイでケチって買わなかった分をコズミック出版などで見る貧乏くさい日々。ロケーション撮影の話がよく出るが、個人的にはあの十字架状の窓枠がある鉄道警察の室内とか、病室での白いシーツにうめく女(ジャン・スターリング)の顔のショットとか、僕なんかが今更言うことでもないが、本当にルドルフ・マテって凄く良い、と改めて。

 

5/30~6/2『ウィリアム・テロル・タイ・ブレイク』

5/30

マキノ正博『幽霊暁に死す』をようやく。うまく言葉にできないまま日々は過ぎていく。

 

5/31

仕事。自宅にて『エドワード・ヤンの恋愛時代』。

 

6/1

仕事。終わってから自宅にて『ウィリアム・テロル・タイ・ブレイク』。噂の荻野洋一監督作をようやく見れた。七里圭監督・黒川幸則監督の映画などなどへの繋がりは明らかなんだろうけど、それでもいまだに荻野洋一さんのことをよくわかっていないが、ますますわからなくなった。実は元祖・山形育弘なのか? 予想のつかない角度からの連続。とにかく美しい。何もかも美しい。女優が美しく可愛い。ただもうそれだけで大抵は十分だが、それだけでなくとにかく徹底して美しい。美しさの意味合いを変化させながら、結局のところは何が何だかわからないから「美しい」というしかない。それは泣かせるよりも笑わせようとしているものであって、ここには滅びの予感も何もない。希望もない。愛についての教訓もない。ただ今となっては徹底して美しい。階段の隙間が平行四辺形の枠となって、下世話かつボケた話を切り返す。その下世話さが呼ぶ嫉妬や妄想などどこ吹く風と言わんばかりに、あらゆる光と影の交差する密会現場へ。波面の光の美しさ。夜が明けてからの冬の空気の美しさ。ゲームセンターの美しさ。ただただ驚異。しかもそれはもしかしたら既に過ぎ去ってしまった、終わってしまったかもしれない寂しさと共に(だからもう誰も嫉妬もできないのか?)、なぜかネットで見ることになる。冬の寒さがよく似合う。

narutakionline.com

 

6/2

仕事。早速残業。

 

5/27~29

5/27

省略

 

5/28

一日仕事。

自宅にて山本英(監督)イ・ナウォン(脚本)『惑星サザーランドへようこそ』第一話。「酷似」した外見の(というか見た目は何も人間と変わりない)隣人同士の話。海辺の宿の話(今回は館山)。ほかにも気絶など、両者の作家性が見えてくることになってた。

Twitterのおかげでエドワード・ヤン演出の舞台がアップされてると知る。だからもう必見。92年。クーリンチェ翌年。死体の話。映画のその後なのかもと思いつつ『恐怖分子』だと初っ端から死体が転がってたか。『カップルズ』の滑稽さは、ここから? ジェスチャー、英語字幕のおかげかもしれないが、なんでエドワード・ヤンの映画にはすんなり入り込めるのか。

www.youtube.com

初めてTwitterのスペース機能での会話に参加。かなり楽にできるが、某人物にブロックされているため追放。この種の不快感は今までなかった。というか、そんなに僕が嫌いですかね。

 

5/29

仕事終わりに久々に映画を見ようと思い、『クルエラ』や『アメリカン・ユートピア』か悩んだが、どっちもこの上映館じゃ見れないだろうと諦める。最寄りのシネコンにて『アオラレ』。検索したら脚本家が『鮮血の美学』リメイクと、何とウェス・クレイヴンパニック・フライト』の人だった。運命だか通り魔だかわからない相手が遠距離から念を飛ばしてくる感じ含めて『激突!』よりはウェス・クレイヴンの型っぽい。ただ見ている間はクレイヴンの詰め込むだけ詰め込む感じは薄い(それはカナザワ映画祭の方とかが書いていたアメリカ映画の「敵が弱くなった」ことと同じ?)。アレクサンドル・アジャ(特に『クロール』)のほうが、リベンジ映画の点は確実に魅力ある。

夜、スペースを今度は自分でやってみる。後半は知人のスペースに入って、ひどく下品な話をしてしまい自己嫌悪。

5/26 『恋に踊る』(ドロシー・アーズナー)@アテネフランセ文化センター

去年逃したドロシー・アーズナーを見にアテネフランセへ。仕事のため『人生の高度計』は間に合わず『恋に踊る』だけ。「複雑な状況にみんな混乱してただけ」とモーリン・オハラ自ら答える台詞通りの映画かもしれない。どこか冷静な「せわしなさ」という点で、グレタ・ガーウィグ監督作の先駆けみたいな。スピルバーグペンタゴン・ペーパーズ』では歩道を渡る役名もはっきりしない人物が一人轢かれかけるが、ヒヤッとしつつもどうってことなく走り抜ける。『恋に踊る』では老女が轢かれる。それがモーリン・オハラの回り道のきっかけかはわからない。雨の日に鍵を落とすという展開が、回り道を回り道ではなく必要な通り道であったかのようにも思わせるし、ただ引き延ばした不運の一つだったのかもわからない。麻生太郎のような「勝者」の目線通りに出来ているわけではない。まず単純に運が左右する。そこに彼ら彼女らの性格が加わる。酒の力が、気まぐれが、内面の不安定さが、自らをコントロールさせてくれない。振り回される自分たちはショーの仕掛けの一つ、与えられた役、演じる役に過ぎないのかもしれない。自らが「ブルーの瞳」の代役でしかなかったことも、知らぬ間にブルーの瞳ばかり追っかけていたことも、何も私たちは自分をコントロールできていない。だが踊る身体を、観衆の反応を、マスコミを、相手の癇癪をコントロールできたところで、それが実力や才能というものかもしれないが、それでも、結局のところ自分の意思だけで世の中動くわけではない(所詮は型通りの展開に過ぎないようにも見えてしまうことも含めて)。それゆえの乾いた「せわしなさ」。このせわしなさの意識に、何となくボンヤリとしか日々を過ごしていない自分はあこがれる。それでも思い出話など喋ろうとすると、自分にも「せわしなさ」を経験した時はあった気がしてしまう。自分は振り回されていた(と思ってみたい)。自分はせわしなく生きていた(と振り返ってみたい)。上昇も下降も運動は意志だけではどうにもならない世界。
どことなくジョージ・キューカーを思い出す映画で、酔って壇上へ歩んでいく姿はジェームズ・メイソンが重なる。スターも出てくる。裁判も出てくる。ルシル・ボールのマスコミの扱い方にしても比べたくなる。やはり女性か、マイノリティの側か、そうした立場だからこそ見える役割が、誰もが勝者になれるわけがない世の有り様がはっきりと見えるんだろうか。

先日の森﨑東『わが町Ⅱ』の蟹江敬三がこぼす「俺の人生このあたりまで」という見えてしまった地点、『花柳幻舟獄中記2』にも通じる、選んだわけでもない生。

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5/24・25『花柳幻舟獄中記2』(監督:森﨑東 脚本:掛札昌裕)『わが町Ⅱ』(監督:森﨑東 脚本:鎌田敏夫)

ありがたいことに友人にお願いして『花柳幻舟獄中記Ⅱ』録画していただく。脚本・掛札昌裕は変わらず、今回は森﨑東! なので前作より東映色(というか野田幸男らしいハッピーな下世話さ)は薄れて、やはり新宿芸能社シリーズに近い元受刑者たちの疑似家族的な集まりが話の中心になる(副題も「女生きてます」が相応しいんじゃないか)。結末もより苦い。友情出演の人物とのヒソヒソ話、エラくイキイキしたオークションが花柳幻舟本人を引き出しながら、倍賞美津子松坂慶子ら森﨑映画の女優たちに連なる笑顔と涙を見せる。河原崎長一郎は男気を貫き通せず『喜劇 女は度胸』の河原崎健三にありえたかもしれない裏切りをしてしまう。びっこを引く彼の後ろ姿が許しがたい存在になってしまっても悲しい。

さらに友人にお願いして森﨑東演出『わが町Ⅱ』も録画してもらった。こちらは美保純の過去を今回は蟹江敬三が刑事の立場を逸脱して追う(そして事件解決後は別れの時間もなく消えてしまう)。『特出しヒモ天国』の涙なしに見れない場面も繰り返されそうになるが、今回は泣き声ではなく、声のない側へ引き寄せる。たいした役ではないけど益富信孝のアップも出てくる。で、結局真犯人たちがどうやって自殺に見せかけて殺害したのか、そもそも本当に他殺だったのかの答えを出さない(自殺の場面を撮ってしまっている)。おそらく蟹江と渡辺謙の二人とも美保純が人殺しであるイメージに取り憑かれている。ただ蟹江は3の倍数という数字に賭けて、またしても刑事の立場からは明らかに危うい暴走で一か八かの手紙を捏造して(彼は自覚して嘘をついて)投函する。

5/23 『エノケンの頑張り戦術』『東海道弥次喜多珍道中』(シネマヴェーラ)『青春残酷物語』(自宅)

シネマヴェーラへ。
中川信夫エノケンの頑張り戦術』。またしても一つの画面を真っ二つにしたようにライバルが隣同士の空間に現れる(これも今となってはスプリットスクリーン的に見えなくもない)。今回はエノケンが張り合うほどマイケル・スノウばりにカメラが←→するわけだが(題材は時代遅れにされても、映画はあの手この手で時代を結果的に先取りする)、ラストにはスクリーンプロセスの車窓へ落ちた相手が再び走って戻ってくるのも妙(これまたスクリーンに飛び込んだように見えなくもない、と書くとキートンになってしまうが)。本当にいろんなことをやっている。
由利徹南利明の『東海道弥次喜多珍道中』はほとんど期待していなかったけどネタになるかと見たら、結構面白かった。というか、この二人はじめ、ただただ軽い感じが相当いい。石川五右衛門毒殺の件が一番好きかな。本筋といえば本筋だが終盤のアラカン登場からコンビが脇に消えているあたり、(荒木又右衛門から桂小五郎へ時空を飛び越えるあたり)ブニュエル『銀河』を思い出したと言ったら、まあ、言い過ぎというか、だがその辺のピカレスクロマンというか(よくわかってません)、デタラメさが何だか勉強になる映画。

 

自宅にて『青春残酷物語』を見直す。アクション繋ぎにせず、アクションごとに切ってしまうような。大島のカット尻の短くなる割り方は滑らかに繋げさせないけれど、こうして自宅で見たときに途中で止めることを阻む効果がある(そもそもそんな見方は許されないんでしょうが!)。あえて繋がらなってしまうかもしれない撮り方で映画をぶつ切りにしてしまいかねないところで、実は最後まで持続させる(そこに編集・浦岡敬一の真価を発揮させているのだろうが)。刑事が川津祐介の拳を掴むところと、桑野みゆきがシケモク吸って煙の少しだけ漂う時間が今回は印象に残る。
夜の通りを桑野みゆきの横から川津祐介がジャンプカットで消えて、片や佐藤慶らにボコられ踏みにじられ、その呻き声が乗車してしまった桑野みゆきを振り向かせる。こんなの青臭い演出かもしれないが、なんだかひどく感動してしまった(聞こえないはずの声が壁を越えて届いてしまう演出は今後も繰り返される)。これこそ本来繋がらなくなってしまったかもしれないもの同士を繋げさせることなんだろうか。彼女にはもう車から飛び降りる以外の選択肢は残されていない。
桑野みゆきの赤い傘といい、大島の映画が手に出来た色彩感覚を見ていると、『私のベレット』のヘンテコ具合を見直したくなる。

5/21~22

5/21

出勤前にバット・ベティカー『黄金の大地』。

いよいよアンディ・ミリガンに挑戦しようかと思うが、開始10分にて挫折。大学いた頃からミリガンをちゃんと見ることに失敗し続けている。これはいよいよ映画館でみなければ無理ということ。ここ二年ほどは仕事が忙しくなってトラッシュなものを最後まで見る気力が失せてしまっているんだろうか。ミリガン本が「トラッシュ」という烙印から解放しようとしているのは百も承知だが、これは完全に気力体力、もしくは自分の脳が仕事に染まっているのか、ともかくしんどくなると止めてしまう。ミリガン本を読む限り、ミリガンは10分で耐えられなくなるのは誰もが通過する経験らしいが。

そういえば(一緒にすべきかわからないが)『悪魔の受胎』は最後まで見た。むしろ自分の興味の線から外れていると判断したものを見る気が失せているんだろうか。「こんなもの見ている場合じゃない」という感覚がはっきりしてきた。こんなもの扱いは失礼だろうが。それは映画館に行く気が失せていることともセットになっている。コロナも影響しているのか? ガイ・リッチーの新作を見に行く気も失せている(まあ、それは今に始まったことではない)。はたしてトーマス・ハイゼも見に行くのか? 配信もRTとかしてチェックした気になっているが、見ないまま終わっているものがほとんど。なんというか、それが単に今まで見れていなかった穴だとはわかっていても、その穴を埋めるとして、別の穴を埋めるべきなんじゃないか、と今はむしろもっと「普通の映画」を見なければと思っている。その普通の映画とは別にガイ・リッチーの新作なのかもしれないが、でもそういうわけではない。かといって名画座に通って勉強する気になれないまま。なぜ文化村に行く気がわかないのか。

もとから別になんでもかんでも見る人間ではない。見た感想を書けないのは、ここに書いた内容で誰かに馬鹿にされたくないというだけ(どうせみんな隙を見ては、こいつは馬鹿だ、こちは自虐ばかり、怨念ばかり書いていると思う個所だけ覚えて記憶を捏造して、いかにこいつは退屈かと見捨てるだけなんだから)。ともかく別になんでもかんでも見ようと思ったことはない。むしろそれをはっきりと強調したい。とにかく頑張って評判のを見たら予想外のものがあって面白かったという経験は何となくある気がする。それでも最近は予想外のものを見るというよりは、何となく、「これは見ないとまずい」というか、一応はうまくここには言葉にできないけれど見る理由があると思ったものを見ているわけだから、ともなくそこに最近は映画館が選択肢に浮上してこないことが多いだけ。いや、今は理由なんかともかく映画館に行くべきなのかもしれないし、どこにも行くべきではないのかもしれない(こんな仕事やめるべきなんだろうとか)。

とにかく焦りから見ていたのが学生の作った映画だった。常にそれは焦りから見ていた。今はむしろ焦りから見るのをやめている。それは自分の知っている学生が減っているからだ。自分が一方的にでも何となくどこかでその存在を(誰かが話題にしたとかで)知った学生とか年下の映画は絶対に見ようと決めた。それは要するに置いていかれたくない、自分をどこかに置いていたいという不安だ。それが今は知っている年下がいないから、逆にこんなものを見て焦っている場合ではないのだ、という焦りからシャットダウンしようと決めた。

 

5/22

出勤前に『幽霊暁に死す』を見に行こうかと思うが、何となく体力に自信なく、来週にする。つまらない選択をしているという自己嫌悪から、自宅にてマキノの『大暴れ五十三次』。

さらに続けてジョン・フォード『ドクター・ブル』。

帰宅してからウィリアム・ワイラー『お人好しの仙女』。

豊田四郎について何か書かなければと思い、国会図書館にも予約したが行けず、ともかく「西河克己映画修業」に載っていた渋谷実のことをきっかけにワイラーをやはり見なくてはと思いつつ、それでもなかなか向き合う気力わかないまま、これはこれでプレストン・スタージェスの映画としての興味の方が勝ってしまうままなのだが。ともかく自分は退屈な人間なのだと自己嫌悪することで先送りしている場合でもない。