5/21~22

5/21

出勤前にバット・ベティカー『黄金の大地』。

いよいよアンディ・ミリガンに挑戦しようかと思うが、開始10分にて挫折。大学いた頃からミリガンをちゃんと見ることに失敗し続けている。これはいよいよ映画館でみなければ無理ということ。ここ二年ほどは仕事が忙しくなってトラッシュなものを最後まで見る気力が失せてしまっているんだろうか。ミリガン本が「トラッシュ」という烙印から解放しようとしているのは百も承知だが、これは完全に気力体力、もしくは自分の脳が仕事に染まっているのか、ともかくしんどくなると止めてしまう。ミリガン本を読む限り、ミリガンは10分で耐えられなくなるのは誰もが通過する経験らしいが。

そういえば(一緒にすべきかわからないが)『悪魔の受胎』は最後まで見た。むしろ自分の興味の線から外れていると判断したものを見る気が失せているんだろうか。「こんなもの見ている場合じゃない」という感覚がはっきりしてきた。こんなもの扱いは失礼だろうが。それは映画館に行く気が失せていることともセットになっている。コロナも影響しているのか? ガイ・リッチーの新作を見に行く気も失せている(まあ、それは今に始まったことではない)。はたしてトーマス・ハイゼも見に行くのか? 配信もRTとかしてチェックした気になっているが、見ないまま終わっているものがほとんど。なんというか、それが単に今まで見れていなかった穴だとはわかっていても、その穴を埋めるとして、別の穴を埋めるべきなんじゃないか、と今はむしろもっと「普通の映画」を見なければと思っている。その普通の映画とは別にガイ・リッチーの新作なのかもしれないが、でもそういうわけではない。かといって名画座に通って勉強する気になれないまま。なぜ文化村に行く気がわかないのか。

もとから別になんでもかんでも見る人間ではない。見た感想を書けないのは、ここに書いた内容で誰かに馬鹿にされたくないというだけ(どうせみんな隙を見ては、こいつは馬鹿だ、こちは自虐ばかり、怨念ばかり書いていると思う個所だけ覚えて記憶を捏造して、いかにこいつは退屈かと見捨てるだけなんだから)。ともかく別になんでもかんでも見ようと思ったことはない。むしろそれをはっきりと強調したい。とにかく頑張って評判のを見たら予想外のものがあって面白かったという経験は何となくある気がする。それでも最近は予想外のものを見るというよりは、何となく、「これは見ないとまずい」というか、一応はうまくここには言葉にできないけれど見る理由があると思ったものを見ているわけだから、ともなくそこに最近は映画館が選択肢に浮上してこないことが多いだけ。いや、今は理由なんかともかく映画館に行くべきなのかもしれないし、どこにも行くべきではないのかもしれない(こんな仕事やめるべきなんだろうとか)。

とにかく焦りから見ていたのが学生の作った映画だった。常にそれは焦りから見ていた。今はむしろ焦りから見るのをやめている。それは自分の知っている学生が減っているからだ。自分が一方的にでも何となくどこかでその存在を(誰かが話題にしたとかで)知った学生とか年下の映画は絶対に見ようと決めた。それは要するに置いていかれたくない、自分をどこかに置いていたいという不安だ。それが今は知っている年下がいないから、逆にこんなものを見て焦っている場合ではないのだ、という焦りからシャットダウンしようと決めた。

 

5/22

出勤前に『幽霊暁に死す』を見に行こうかと思うが、何となく体力に自信なく、来週にする。つまらない選択をしているという自己嫌悪から、自宅にてマキノの『大暴れ五十三次』。

さらに続けてジョン・フォード『ドクター・ブル』。

帰宅してからウィリアム・ワイラー『お人好しの仙女』。

豊田四郎について何か書かなければと思い、国会図書館にも予約したが行けず、ともかく「西河克己映画修業」に載っていた渋谷実のことをきっかけにワイラーをやはり見なくてはと思いつつ、それでもなかなか向き合う気力わかないまま、これはこれでプレストン・スタージェスの映画としての興味の方が勝ってしまうままなのだが。ともかく自分は退屈な人間なのだと自己嫌悪することで先送りしている場合でもない。